文鳥の流通を考察する
白文鳥のミナが亡くなった。ミナが弥富出身であったかわからないが、考えてみれば、その可能性はかなりある文鳥であった。そこで、関係があるかないか微妙だが、文鳥の流通について書き散らしておく。【プロローグ】今日八百屋さんで小松菜が2束150円で売っていて、私を喜ばせた。しかし、一方で、有機だとか無農薬だとかより手間暇をかけたとする小松菜は、1束300円で売られており、それを好んで買い求める人もいるのが、今現在である。こうした現況を、前提として考えてもらいたい。 文鳥のヒナの小売店への卸価格は、私の知るところでは、国産の桜1,000円、白1,200円なので、卸売業者が生産農家なり繁殖サイドから買い取っている価格は、1羽数百円に過ぎないことは確実だ。また、検索すると、現在の生産者の生の声を聞き取って紹介されているブログがあった。昨年弥富の繁殖農家への質問の回答に「桜ヒナはコメダコーヒー(名古屋の喫茶店チェーン)1杯」とあるのだ。その喫茶店チェーンのサイトによれば、コーヒー1杯380円である。 1980年頃なので、ざっと30年前の業者への売り渡し価格は、『畜産全書』によれば、平均で白380円、桜180円となっている。また、2009年の弥富市文鳥組合解散にあたって印刷された『弥富文鳥盛衰記』には、「十年も二十年も全く文鳥の値も上がらない。これほど手間暇かけた文鳥生産も利益収入なしでは・・・」とある。つまり、桜文鳥の価格に限れば、2倍程度になっているものの、白文鳥ヒナの買取り価格には、あまり変動がなかったものと推測できる(白と桜の需要に偏差がなくなったことを示すと思われる)。 コーヒー、それもチェーン店のそれ一杯の価格、そのような単価の安さに甘んじ続けたのは、文鳥生産を副業とする農家の人が、あまりにも市場動向に疎く、商売が下手以前に、商売をあまり考えなかった結果と、完全無欠に他人事ながら、私はものすごく残念に思っている。もちろん、それを責めるつもりは毛頭ない。しかし、『弥富文鳥盛衰記』が、「もともと文鳥の手乗りは対象が子どもたちだった」とした上で、需要低下の理由を「子どもたちの遊びが変わってきた。電子ゲームの出現、それから子どもたちの生活の変化」としていたり、「コメダコーヒー」との聞き取りをされたブログ氏が、「流行らなくなった原因は、手乗りを子供の遊び相手で飼う人が多かったが、TVゲームへ遊び道具が以降していくとともに文鳥の出荷も減ったとか」とお書きになっているのを見ると、過去との変化を嘆くばかりで、変わったことをチャンスと捉える柔軟性に欠けていたようにしか思えない。 ペットというのは、当然、かけがえのない生きものであり、本来、子供の遊び道具であるはずがなく、子供を含めた家族が、家族の一員として飼うべきものだ。飼育の責任は、最終的には大人が負うものであり、そもそも金を稼いで持っていて、使用の是非を判断するのは大人であり、価格だけではなく品質をしっかり吟味できるのも大人である。従って、「これほど手間暇かけ」ているなら、しっかりその情報を、お金を持っている大人の消費者に伝え、その手間暇に見合った価格でお互い納得して売買すれば良い。ようするに、白文鳥の発祥地と聞けば、憧れたり訪れてしまう、とてもコアでディープでアダルトな文鳥愛好者である消費者への直販をこそ、志向し模索すべきだったと思う。 そのような指摘は、十年以上前から私がしているくらいなので、農家の周辺にも似たような提言はあったものと想像する。しかし、それが出来なかったに過ぎない。現在の価値観が多様な社会では、農家も、消費者の動向を直接感じ取っての商売が必要で、「需要が少ないから安くなる」などと、十年一日で頭の固い中間業者の物言いを鵜呑みにすれば、どんどんと時代から取り残されてしまうものと思う(需要が少ないから希少価値が上がって高くなるとも言える)。せっかく、足しげく通って来る異常なまでの愛好者の存在があったのだから、それらの大人たちこそ、『お金』そのものに結びつくことに気づいて欲しかった。 300円で10羽売るより、3,000円で1羽売ったほうが、はるかに効率が良い。それは、当の生産農家にも理解できるらしいので、おっとり刀ながら、単価の高い新たな品種の繁殖を始めてもいた(量が少ないので価格破壊が起きない。逆に言えば、白と桜が極端に安いのは、大量生産が常態化したためだと思う)。しかし、それよりも、むしろ、長らく培ってきた自分たちの品種を誇りとして世に問うべきだったと、私はずっと思っている。「弥富の白文鳥」というブランドに惹きつけられる人が少なからずいて、その人たちと会話をし、同情もされていながら、そういう大人たちが、価格が安いから、自分たちの生産する弥富の文鳥に魅力を感じている、と思われていたのだろうか?少々不思議にも思えてしまうではないか。 自分で販路を開拓し拡大することが出来なければ、中間業者に搾取されるだけなのは、文鳥生産に限った話ではなく、世の当然である。『士農工商』の時代ではないので、農家の人には、はりきって商売を始めてもらいたかったし、今からでも始めたら良いと思う。単価が上がれば、飼育数を減らしても収入が維持できるので、労力も減らすことが出来、老齢であっても継続の道が開かれよう。 しかし、ご高齢であれば転機はつかみにくく、変化を求めたがらないのも止むを得ない。そこで、生産農家を「何とかしたい」とシンパシーを感じ、時間的余裕も経済的余裕も飼育スペースの余裕もある人が、役に立たない情緒的な同情に終わらず、一歩踏み込んで手助けする道もあったかもしれない。もし、私が、十年以上も前に「何とかしたい」「生産農家を残したい」と感じ、農家の人と親しくなったのなら、直売店になって、その振興に努めたのではないかと思うのだ。 別に難しいことではないだろう。今、業者へ売り渡す価格が400円なら、少なくとも4倍の1,600円で引き受けて、付加価値をつけて倍以上にして売れば良い。2ヶ月くらい手乗りとして育成して、オスかメスか分かってから売るだけのことで、犬の家庭的ブリーダーが、トイレトレーニングなどのしつけをし、ワクチン接種も済ませた上で希望者に売り渡すのに比べたら、さしてコストも手間もかからない。自家繁殖の手間もいらず、育成するのみなので、養殖業と言えるかもしれない。そうした育成直売所を各地に10人も持つなら、生産農家の経営もずいぶんと楽になったはずである。 私は、ペット動物を、畜産業レベルの環境で、大量生産することが、継続してもらいたいとは思えないし、経済合理性の上では消滅が避けられないと思っている。従って、特に生産農家を救済するのではなく、新たな供給を普通の飼い主が普通に飼育している中で、必然的に生まれたヒナを、適宜販売する形態、犬では日本でもよく見られるようになった、家庭内ブリーディングでの直販形態に移行することを望んでいる。むしろ、それしかないものと思っている。なかなか根付かないなら、将来的には自分でも始めるかもしれない。飼う人がいなければ、商売(文鳥用品店)が成り立たないので、そうするしかないのだ。 単価がコーヒー並みでは、繁殖などする気にもならないだろうが、5千円ともなれば、自分の飼育コストを軽く賄え、飼育環境を向上するための原資にもなると思う。例えば、純血種の犬のペアを飼育している人が、年に一度の繁殖で5頭の子犬を得て、その子犬を希望者に一匹5万円で売ったとすれば、収入は25万円になる。これを文鳥で実現するには、1ペアで年10羽は繁殖するはずなので、5千円なら1ペアで年5万円。従って5ペアで、同様に年25万円の収入が可能となる。 もちろんこれは机上の空論だが、犬1ペアよりも、文鳥5ペアの方が、飼育コストも手間も、格段に小さいはずで、その点はむしろ容易かと思う。ネックとなるのは、年50羽を直販で売ることが出来るかであり、その点はかなり努力する必要があるかもしれない。しっかりと血統を管理し、「弥富系」として差別化を図ったり、飼育環境とエサの内容の開示で安心感を与えたり、アフターサービス(例えば、旅行時などの預りサービス)を充実させたり、それで生計を成り立たせるのは無理でも、サイドビジネスとしてなら、可能性は小さくないと思うのだが、どうだろうか。【エピローグ】そうした家庭内ブリーディングによる流通形態が拡大すれば、全国のブリーダーでもある家庭が、災害時などの文鳥などの小型の飼い鳥の一時受け入れなどの拠点にも成り得るかもしれない。このような将来像こそ、私には望ましいものに思える。