手乗り文鳥でプレ育児
それなりに真っ当に育った?アラシ 例の事件の容疑者の父親がコメントしたが(産経記事)、その内容はいろいろな意味で遺憾なものであった。 自分の子供を信じるのは、私情として当然ながら、それは「私」、自分や家族内部のみで通用する話であり、公表すべきものでは無かった。この場合、この父親が信じる息子は、その信頼を裏切り続け、学校を辞め夜の街を徘徊し、その愚連隊なり与太者集団内で暴力行為を常習としていたそうなので、「公」、世間一般から見れば、危険な厄介者でしかない。従って、この父親は、躾けのなっていない狂暴な犬を無責任に街に放っている飼い主に等しく、その人がこのようなコメントをしてしまえば、バカ息子を放置した己の社会的責任を自覚していないと見なされてしまうだけではなかろうか。なぜ、黙っていられなかったのだろう?これを止めない弁護士とは、何の役に立っているのだろう? 親が子を信じ守るなら、必ず子はその愛情に気づき、身を慎むようになる、などと言うのは、おとぎ話に過ぎず、そもそも人間の個性を無視している。実際は、いくら信じても裏切る子もいれば、そもそも信じられることにすら気づかない子もあり、信じられることを重荷にしてしまう子もいる。従って、同じように育てても、一方は聖人君子に育ち、一方は極悪非道に育つことも有り得るのが現実で、それは、その子の資質がそれぞれ異なり、その教育が、その子の資質に適合していたかによって生じる違いかと思う。同じ教育でも、一方の子はそれを素直に受け入れる資質を持ち、一方はそれに反発する資質を持っていれば、結果は真逆となって当然と言えよう。 子育てマニュアル通りにしているのに、とか、『有識者』の子育て論を参考にしているのに、とか、うまくいかない話を耳にするのは、真似することにばかり気を遣い、自分の子の個性を無視しているから、ではないかと、私には思えることが多い思える。やはり、別の子に対する他人の教育を真似するよりも、自分の子の資質を手探りしながら見極め、その子の反応を見ながら接し方を変えなければ、うまくいかないのではなかろうか。 もしも、生まれながらに凶暴な資質を我が子が持って生まれたとしても、それを社会的規範から外れないようにコントロールしなければ、保護者の責任となってしまう。その自覚をせず、闇雲に信じて親バカぶりを発揮されても、社会に迷惑をかけることにしかならず、社会的に親子ともども身を滅ぼすだけの結果にも終わってしまうはずだ。・・・人の親とは、いかにも大変だと思った。 さて、文鳥という生き物は、人間同様に性格の幅が広く個性的で、それはやはり生まれながらの資質に負うところが大きい。つまり、同じように育てても、同じようには育たない。もちろん兄弟姉妹でも皆違っていて、甘える子もふてくされる子も暴れる子も冷静に観察する子と、実にいろいろに育ってくれる。 となれば、文鳥の飼い主とは、いかにも大変なものだろうか?否、ものすごく楽しいものである。万一、その文鳥の資質をうまく理解できずに、接し方、付き合い方を間違えても、夜の街を徘徊して犯罪に及んだり、飼い主の寝込みを金属バットで襲うような心配はないので、余裕を持って接することができるし、何しろ、「我が子」は25グラムしかないのだから、せいぜい、血のでない程度にかんでくるか、逃げ回るか、カゴに閉じこもってしまうか、くらいなもので、他人様に迷惑をかけたり社会的な問題を引き起こす心配もない。つまり、あくまでもプライベート、「私」の世界で収まるので、グレたらグレたで、グレた文鳥の姿を楽しめれば、まあ、勝ち、なのである。 昔から、ペットを飼育することは、子どもの情操教育になると、推奨されてきた。確かに、小さな生き物に個性を見出し、生命の尊さを実感することは、子どもの教育上好ましいことかもしれない。しかし、まともな大人が導くことをせず、子どもが玩具として扱うに委せてしまえば、生命の軽視や差別感情といった悪影響を与えることにしかならないのも、また事実であった。 その点、手乗り文鳥の飼育では、情操=「美しいもの、すぐれたものに接して感動する、情感豊かな心。道徳的・芸術的・宗教的など、社会的価値をもった複雑な感情」(『大辞林』)といった漠然としたものばかりでなく、プレ育児、育児を行う前の参考として、意味を持たせることが出来るのではなかろうか。個性を見極めどのように接していくか試行錯誤する。これは、人を教育する時に、大いに役立つ経験となるように思える。 「文鳥を育てられないようでは、育児は無理ですね~」とか言ってみたいものである。