文鳥の放鳥目的は一に運動
上品なマナツの水浴び 「先んずれば人を制す、後るれば則ち人の制する所と為る」と『史記』にあるように、古来の戦術上の鉄則に従い、既得権益を持つような特定団体を嫌い、特定の政党への支持を避ける無党派と呼ばれる一般人の反感を招くような行動をしなかった、小池百合子さんが勝ったのは、必然だろう。 都政とは無関係な現政権の批判のプラカード、つい先日の国政選挙で用いてうまくいかなかったそれを持った人たちが街宣車の周りを囲んでいたり、候補者の周囲のおばさんたちが、そろいのユニフォームで「ますますますだ!ひろげてひろや!!」などと合唱していたら、演説を聞きたい一般人すら遠ざけてしまうのがわからないものだろうか? 「負けに不思議な負けなし」との松浦静山(江戸時代の殿様)と野村克也さんのお言葉を、肝に銘じるべきだろう(で、肝に銘じて「先手必勝」と早々に手を挙げさせたら、後から「オレが本命」と勿体つけて出てきた人に、美味しいところを持っていかれるのだろうなぁ)。 万年坊やのマナツも6歳になった(誕生日は29日)。人間で言えば50歳。まだ老け込むには早すぎるように思うが、運動嫌いの「文系」な性格のためか、飛ぶのも億劫そうで、テーブルの上に行くのも飼い主の送迎に期待するようなことが多くなっている。 ところで、手のり文鳥の室内放鳥には、2つの意義がある。1つは運動不足の解消、もう1つは飼い主とのコミュニケーションである。これは当たり前のようだが、同じ手のりの鳥でも、インコの類では運動の側面が薄く、コミュニケーションが主題になる。 なぜそうなるのかと言えば、文鳥は小さく、小回りな短距離の飛翔に適した身体構造をしているため、人間の家の一室でも、十分に「羽を伸ばせる」のに対し、インコは、小型のセキセイインコでさえ、はるか上空を長距離移動するのを本質としているため、室内でそれを行うのは無理で、鳥自身も閉鎖空間で思い切り「羽を伸ばす」気持ちにもなりにくいからだろうと思う。 それぞれ良し悪しがある。あまり飛び回らないインコは、コミュニケーションとして飼い主が一緒に遊びやすく、また飛び回って捕獲し難くなることも稀だが、本来の飛翔ができないので、運動不足になりやすい。一方の文鳥は、その逆で、室内を飛び回るだけでも運動不足にはならなそうだが、1羽飼育を除き、飼い主とゆっくりコミュニケーションをとりづらくなる。 聞くところでは、インコではペットホテルの類でも、ケージから外に出して遊んでくれることがあるそうだ。しかし、文鳥では不可能だと思う。人間も自分の仲間の一種だと認識している手乗りのインコなら、知らない人でも、それが人間の姿に見える限り、それなりにフレンドリーに接してくれる可能性を、かなり期待できるかと思う。ところが、手のり文鳥の場合、飼い主とベタベタのラブラブなのは、馴れているのではなく愛しているからなので、他の人間は、ライバルとして警戒する対象と見なされる可能性が高く、フレンドリーな関係になるのは容易ではない。 同じ小鳥でも、生態が異なるばかりか感じ方考え方も異なるので、区別して、誤解がないように気をつけたいものである。