住めば都となんいいけり
モコモコの「ナカ」「マル」に挟まれ至福のカッパ 案の定であった。午前中、またポイ捨てしていないかカゴの底を確認し、そこにナマモノが捨てられていないので安心して、水の取り替えを始めたところ、水漬く屍(みずつくかばね、「令和」年号の出典として名の上がった大伴旅人の子大伴家持の歌に出てくるフレーズだが、戦前の軍国日本では「海行ゆかば」の一節として知られる)・・・否、ナマモノが投棄されていた。 もはや、明日も明後日も、屍(しかばね)ならぬナマモノの投棄は止まぬものと判断する他なく、有精卵2個を十姉妹のもとに託することにした。↑の子たちとは無関係のメス3羽が売り物として同居しており、仲良く産卵抱卵を続けていたのである。 あまり期待せず、明日を待ちたい。 それにしても、↑の「ナカ」「マル」は売り物だが、やはり、日に日に売りたくなくなってしまう。やはり、個性がわかってくると、手放しがたくなるものだ。 自分の愛する文鳥なり十姉妹の嫁なり婿に、手乗りの異性を望む人が少なくないが、普通に考えればそれは難しい。逆に、お宅の女の子なり男の子を、どこかの誰かが、自分の家の文鳥なり十姉妹の嫁なり婿として譲ってくれ、と言われて、譲れるものであろうか? 毎日遊ばなければ手乗りではなく、遊んでいれば愛着で手ばなせなくなる。譲渡を望む人がいかに素晴らしい環境で愛情をこめて飼育してくれるにしても、住めば都で、生まれ育った環境で生きることが、事情など理解できない小鳥にとっては、何より幸せなのである。 三食昼寝付きだから、野生で天敵におびえて生きるより、カゴの鳥になった方が幸せだ、といった主張もあるが、その考え方は、一面的に過ぎて哲学性を欠いて身勝手に思えてしまう。こんなところになぜ住むのかと客観的には思えても、本人は愛着を持って離れようとしないことなど、論理分別のある人の世にも珍しくあるまい。まして、小鳥では当然だ。となれば、あまり大きく育ったよその子をウチの子にしようとは、なかなか言いだせるものではない。 しかし売り物なのである。そう分別する難しさよ。