騎馬戦は中世ロマン
天才児の白系キンカ 三谷「の」幸喜さんの大河ドラマで、なぜか皆徒歩立ちの和田勢に攻めたてられ射すくめられた北条勢が、盾を密に並べ上を板戸で屋根にした密集体型で逆襲する描写があった。さらには盾を並べて押し返し盾の間から薙刀で討ち取っているのを見て、微笑ましく思った。 しかし、あれは鎌倉時代を知らない人が、『300(スリーハンドレッド)』(ペルシアの大軍に対し、ギリシアのスパルタ軍が、わずか300人で奮戦した姿を描いた映画)を安易に真似てしまった演出で、事実としては有り得ない。なぜなら、密集した亀甲隊形は重装歩兵にとっては有効だが、鎌倉時代の武士の戦い方の基本は騎射戦なので、あのような徒歩での集団戦は存在しなかったからである。特に「屋根」部分は遠くから放物線状に、つまり上から降り注ぐ矢への備えなので、入り組んだ市街地で接戦状態では無用の長物にしかなり得ない。。 また、薙刀は突くことも不可能ではないが、基本的には薙ぎ払うものなので、盾の間から相手を突き刺すには不向きだ。当時の日本の武器でそれを行いたければ、刀の方がまだしもマシに思えるが、遺憾なことに鎌倉時代の日本刀は騎馬戦で水平に切るのを主目的にするため、湾曲が激しく、突くには不向きな武器であった。つまり、あの描写は現実的とは言えず、戦術的な違いを無視したアイデア倒れでしかない。 最終的に和田「の」(野?和田野さんという名字もあるだろうが、その場合、三谷『野』さんは「わだのの」とか呼ぶのだろうか?)義盛は、弁慶の立ち往生状態で死ぬのだが、『300』でレオニダスが最後の一人で玉砕するのと同様に、演出で事実ではない。馬を酷使して攻めたてたが、替え馬がないのでじり貧になり、2日も持たずに前浜(由比ガ浜)に追い詰められ一人一人討ち取られたのが、つまらない事実である。 当然、実際の攻防戦は、大河ドラマではうかがい知れない。和田合戦を記録した『吾妻鑑』には、防戦する北条勢が「各々夾板を切り、その隙を以て矢石の路と為し攻戦す」、つまり、騎馬で突進してきた和田勢を、盾板で防ぎつつ、矢や石を投げつけて勢いを削いでいたのは確かだが、そのように馬を駆るには不利な市街戦の和田合戦においても、勝負の行方を決するのはあくまで馬上戦であった。それは『吾妻鑑』の次の描写でも明らかだ。 「高井三郎兵衛尉重茂は義秀(和田義盛の子の朝比奈義秀)と攻戦す。互いに弓を棄て轡を並べ、雌雄を決せんと欲す。両人取り合い共に以て落馬す。遂に重茂討たれおわんぬ」。和田一族の中で北条に与した高井重茂と剛勇の朝比奈義秀の決闘シーンだ。騎射で勝負がつかず、馬を横づけにして馬上の組討ちとなり、両者馬から転げ落ちての格闘戦の末、義秀が組み勝ったわけで、これが平安後期あたりから鎌倉後期頃までの武士の戦いである。馬上戦で互いに落馬し組み合いの力比べ、相手を倒して首を獲る、そのための修練が『相撲』の原型で、命がけの死闘は、組み伏せた側が短刀で急所を刺すことで終わる。 良し悪しは別にして、そのような戦い方が行われ、そのような殺し合いを日常茶飯としたのが当時の武士で、その日常から彼らの思想なり文化なりが形成されるのである。それを抜きにしては、当時の人間のことなど理解できないのではないか、と思う。 のは、どうでも良くて、↑、汚れた雪玉のようなキンカチョウは天才だと思う。すでに15gあり、飛ぼうとしている。頭が黒っぽいところがかっこいい・・・。 家に残してしまおうと思う。