「インターネットで気軽に自殺」とは・・・。
昨日の11時のニュースの中で、ある高校生が自殺するまでのメールのやりとりが取り上げられ、衝撃を受けた。会ったことのない他人とのメールのやりとりから「一緒に死にたい」「では○○駅で会おう」という話に始まる訳だが、その見知らぬ相手と出会うまでの淡々としたメールのやりとりがあまりにもリアルでならなかった。○○駅は南口と中央口があるだとか、来るまでマンガ喫茶で時間をつぶすだとか、自分は○色のシャツで○○色のジーンズだからまあすぐ見て分かるでしょうとか、これからこの世と決別するにあたっての特別な感傷のかけらもない。その高校生は、朝いつもどおり起きて学校へ行き、いつもどおり下校しつつ、普段から沸いている虚無と失望感から沸いた自殺願望に導かれるままに淡々と死に赴いたのである。 ○○駅で出会った二人は、近くの公団住宅の最上階へ上がり、靴を脱いで二人は飛び降りたのであった。 その淡々とした一部始終を見て、自分自身が生きているということの当事者意識が希薄なことに驚かされる。自分の目から見える現実が、実は仮想の、バーチャルな認識でもって観念されているというか、頭脳そのものがマイクロチップを人工的に埋め込んだような代物な訳で、マウスでの操作と同じく消去もリセットも思うがままだと感じていたのではないか。 いつだったかNHKの深夜放送で、永遠の生命は有り得るのかという科学者の研究についての番組があった。もちろん海外製作の番組である。そこである教授は、永遠の生命を得たいのなら、我々の頭脳そのものをコンピュータプログラミング化(つまり現世と全く同じ「それ」を感じ取れる超高度なプログラム)を組み込むことで実現されるのでは、という「一つの考え」を出した。これに他の科学者達は「そんなのは意味が無い!」と反発したそうだ。この「反論」に彼は冷静に「だって、プログラムの中にいる『わたし』が、そもそもコンピュータプログラムで生かされていることさえも認識し得ないから、意味の無い訳ではない!」と答えた。はっきり言って私は気が動転するほどのショックを受けた。肉体と精神が不可分だというのが当たり前のように認識していた訳で、その関係に何らかの人工的な作用を許すものなのかと・・・。 我々の肉体と精神の不可分性は今のところは一体のものであるし、死の恐怖があるが故に日々の精神活動が成り立っている。その均衡をくずす社会的病理はみんなで真剣に考えていかなければならないかも・・・。