団塊の世代、そしてジュニアである自らを見つめて
4月4日(ちょっと古い!)の朝日新聞夕刊「思潮21」で、日本総合研究所長の寺島実郎氏の興味深いコラムがあった。ずばり「団塊の世代」についての考察だ。 戦争を知らない世代、あるいは「初めから自由であった」世代とも言われ、そのもたらしたものは「団塊ジュニアに映し出される」という氏の論に、団塊世代に育てられたこと「そのもの」を認めようとしなかったわたし自身の愚かな頑迷さと愚直ぶりが、その実像に即していることを改めて認識したと言っていい。典型的な団塊世代である母親も、「団塊の世代は、この記事を読んでもそれが『自分は違う』と勝手に思っている」と指摘、まさに私生活主義の独善と思い上がりを見事に言い当てた訳で、おかしくて仕方がなかった。 寺島氏の指摘した、団塊世代の病理的側面は、私生活主義=個人主義という勝手な思い込みが、社会的な問題解決に対する努力を希薄化させている点、戦後の平和な時代を享受しながら、日本の国土に外国軍隊が半世紀にもわたって駐留をし、米国の世界戦略に即応するだけの空虚な存在である自らに疑念を抱くことも忘れ、世界紛争の傍観者以上の枠を超えられないだけの結果に陥っている点、そして最後に・・・ここが最も氏の力説したい点であろうが、社会の第一線から退くにあたって、この世代に「公」という認識を改めて持つことの重要性が求められている、ということであった。 どれもこれも重い課題といえるもので、「その病理が団塊ジュニアに映し出される」とすれば、正にわたし自身にも逃れられない課題として認識しなければならないはずだった。 ところが、わたし自身を団塊ジュニアの典型とすれば、これもまたケチ臭い実像がにじみ出てくる。 フランスにおいて、雇用改革に関する法案が学生や労働者の猛烈な抗議行動で、廃案同然に追い込まれた。彼らの行動そのものの是非はともかくとして、いかにお国柄の問題があろうとも、学生や労働者たるいわば社会的弱者が、政府の判断を決定的に転換させるほどの力と行動力を持てたことに唖然とする。フランスの危機的な失業率が、人々をやむにやまれぬ行動に駆り立てたのかもしれないが、わたし自身を振り返れば、自ら能動的に行動しようとする自分の意思の欠如がより鮮明となってくる。 わたし自身の経歴を振り返れば、「就職」に至るまでの消去法的な経済的行動様式に理念のかけらもなく、格差社会に象徴される、年々悪化する社会環境に自分は完全に受身となる以外に方法がない。資格を取る、投資を学ぶ、表向きは前向きに見えるが、うろたえているだけのことに過ぎず、不条理は自分達で変革して行くのだという発想や想像力がない。挙句の果てに「かいかく」などと空虚な雄たけびをあげる粉飾決算の専門家に、危うく国の舵取りを任せる寸前までに至った。理念なき経済至上主義とずるがしこいだけの日和見主義は、全くわたし自身のことである。 そのくせ先行きに対する不安のあまり、何もかもが萎縮した「わたし」に「公」という概念を中枢にすえることができるのか、試練の日々が続くだろう。個人を抑圧した戦前のことなど何も知らないわたしは、個人主義というものが「いかなる抑圧にも耐えうる強靭なもの」であることを学ぶのは難しい。ところが、これからのあらゆる意味で混沌とした情勢は、逆に個人に過大な精神的負担を課しつつあるような気がする。その最中において、殻に閉じこもるのではなく「公」との係わり合いの中で、いかに個人が個人であり続けられるか・・・難しい舵取りを迫られるようだ。素直に自分の所属する職場の中で、そして・・・せっかくホームページやボランティア活動など、自ら外に向かって活動している訳だから、その取り組みの中から「公」という概念について地道に学んで行くしかない。