個人情報・匿名・バッシング~いろいろ考えた。
個人情報個人情報・・・みんなとっくに漏れている。漏れていることを前提に、どうやって「悪用する者」へ対抗するかを考えた方が生産的ではないか、と思うようになった。個人情報のリスク・・・それを正当な目的で使用する者が過大な義務を負わされることで、活動が萎縮することの方が大きいのではないかな?権利あるところに必ず義務があるが、個人情報云々の問題については、国民に片務的義務感ばかりが増大しているよううに思う。 ということで、毎週土曜日のFMさがみ「サンセットコースト」で、ちょっと気になる話題、ということで投稿してみた。伊藤はるかさんこんにちは、相模太郎です。 わたしの気になる話題の一つに「個人情報の保護」があります。わたしは毎月一回、とあるボランティア活動に参加しているのですが、そこで「個人情報保護同意書」なるものに署名することになり、気持ちが萎えたことがあります。個人のひとかけらの善意にまでそんな書類が要る時代になったのかーと、複雑な気分です。 伊藤はるかさん、毎週ラジオで自分の声を発信し続けることで、プライバシーの面で不安を感じたり、なんてことはありますか?(パーソナリティーの伊藤はるかさん、メッセージの放送ありがとうございました) というのは、この番組のパーソナリティーやスタッフさんもボランティア活動であり、もちろん投稿にあたってはその辺も考慮に入れなければならない、という心情が働く。 ラジオの投稿一つにも、「自分が特定されないこと」「ボランティアの参加者も特定されないこと」に全力が注がれていると言っていい。もちろんホームページの運営も「自分が特定されないこと」に、頭の半分が持っていかれているような気がする。 ブログやホームページの運営は、「個人名を出せる人」と「個人名を出せない人」に分かれる。堂々と個人名を出せる人はある意味幸せである。自分自身の自己完結性を一貫して主張できる自信が無ければ不可能なことだろう。(中には、ご商売の必要に迫られてやってるというケースもあるのだろうが・・・)匿名のブログや書き込みは、無責任の典型のような否定的なイメージが強いようだ。わたし自身を考えると、自らの能力の無さから、自分を偽ってまで生きていかねばならない現実をつきつけられてる以前に、個人情報の保護=セキュリティーのためでもある。つまり、外部の脅威に対して対抗する能力と気力が無いだけの話である。 そのことを考えると、実名ブログに匿名の書き込みをして炎上させる行為はフェアプレーに反する。だんだん話がそれてしまったが、映画「バッシング」公開の記事を見てふとそのことを思った。この映画は、「イラク人質事件」の被害者を新たに架空のモデルとして設定し、帰国後のバッシングの生々しい様子を描いた作品である。はっきり言って精神衛生上非常に悪い映画だと思うので見る気にはなれない。だから自分もバッシングには加わらない。 しかし何度考えてもイラク人質事件は異様だった。映画の主人公は、ちゃんと「現実の人間像」を浮き彫りにさせる。コンビニで我がままを言うシーンに「主人公のくだらない一面」を写すが、完璧な人間など世の中にいない。ボランティアに対する甘い考え方も浮き彫りにさせるが、ボランティアに参加したことのない人間が偉そうなことを言う資格はない。わたしだって偉そうに言えない。ボランティアと言っても・・・わたしはボウリングをして遊んでいるだけだ。申し訳ないから1500円を出して個人で「ミニレジ」を買ったぐらいのことしか出来やしない。 主人公の行動には議論の余地があるのだろう。議論ならまだいい、バッシングだ。バッシングなんてうまい表現の現実は単なるいじめだ。 バッシングは、めぐりめぐって自分に跳ね返ってくる可能性もある。だから匿名のブログでごまかして満足する。外部の脅威に対抗できる能力も気力も無いのは先に述べた。だからと言って、何もしないで萎縮するのは一番よくない。イラク人質事件の被害者達も、事件さえ起こらなければ、広く公衆にその成果を披露できたはずだった。なのに誰かが邪魔をした。人の善意を踏みにじるテロリストだ。なのに国民はテロリストを憎もうとしない。それはブッシュがバカだからという情勢判断に基づくものではなく、脅威ある対象に無力なだけだ。「人質にとられたのは我々の方でしょ」という「サンデーモーニング出演者の大宅女史」のセリフが当たっていたように思う。大宅女史の発言の直前、正義の味方毎日新聞を代弁する役である岸井氏が「イラク3バカまがいの」発言をして、他の出演者を唖然とさせた。実名で勝負する知識人の世界も、態度は真っ二つに割れたのだった。