飲酒運転を摘発するドリフのコントは今では許されないか?
大昔のドリフ大爆笑で、こんなコントがあった。加トちゃんが「ウヰスキー」を飲みながら運転しているのを志村巡査に呼び止められる。「飲んでないよ!これは酒じゃないですから」と、ひょろひょろになりながら「ウヰスキー」と書いたビンをかざしてみせる。二人のヤリトリに腹を抱えて笑ったものだった。わたしだけでない、日本全国のお茶の間が腹を抱えて笑い転げていたのである。 現在は、おそらくこのようなコントは許されない。そういう厳しい「倫理観」に生きているらしい現代の私たちは、「ヒゲダンスごときで苦情を言ってた」その当時の大人達を「昔の人はカタいね」と笑っている。昔の「カタい」大人達は、飲酒運転摘発のコントをテレビで放映するという、倫理観の欠如した人たちなのだから不思議である。ちなみに交通事故の死亡者数は、昔の方が数的に多い訳である。シートベルトもいい加減な、道徳のない「カタい」大人達の社会だった。 そう、明らかにおかしいのである。悲惨な交通事故は昔だって多かった。けれども当時の大人は、ドリフのコントを笑って済ます器の大きさがあった。そういう言い方でもしなければまとまらないような気がする。 わたしはまだ人生経験が浅いので、ドリフ全盛の時代=子供の時分、の社会と現代を比較して語ることは猛烈に苦しいことだ。だけど、コントの衰退、あるいは風刺漫画の衰退と表現すればいいのだろうか。ヒゲダンスごときで大騒ぎしてた牧歌的なあの頃に比べ、現代の吐き気をもよおす息苦しさは、表現に対する制約を日々強めているような気がしてならない。 まず、政治を風刺するコントなど見たことがない。海外の番組(ブッシュの人形が登場し、♪アメリカさえ良ければいいのだぁーと歌うシーンを見て腹を抱えて笑ってしまった)を見ると、これはお国柄で片付けて終わるものなのかと考えさせられてしまう。大衆は、タブーを叩き割ってくれる「笑い」の一瞬に、一抹の充実感と、自らの存在を噛み締めるという時代は過ぎたらしい。だからタブーに手を触れず、弱い者いじめに通じるバッシングだけが流行る。 いい年こいた大人は、バッシングにもタブーにも中立であるべきだと思う。ドリフの古典芸能とも言えるあのコントは、もちろんそういう大人が見る前提がある。倫理観を各個人に委ねていた牧歌的な時代である。今やそんな悠長なことは許されない!それが公共の福祉に適う!と信じ込まされ、自ら判断すべき「個」を売り渡しているかもしれないのだ。気がついたら、むやみやたらと制約が多くなっている息苦しさに、もっと気づくべきだと思うのだが・・・。(国境なき記者団:日本の報道の自由度37位という低い数字も、この種の「制約」の影響の一つと思うが)