平成19年~今年の漢字は「偽」~私はそうは思わない。
年末恒例「今年の漢字」が清水寺で発表された。その一文字とは「偽」~筆をとった森清範貫主の「情けない」という慨嘆の表情に、今年の世相が滲み出ている、などと新聞では報じている。食品偽装・年金問題・防衛省のスキャンダル~様々な「偽り」に世論・マスコミは激高した。 しかしながら、「これまでの偽がばれた」「真相の一部が見えた」という肯定的な見方をする人がほとんどいないことに疑問を呈したい。例えば食品の賞味期限云々、材料を偽って云々、これらは何も今に始まったことではない。これまでの嘘が隠せなくなった訳だし、検査機器の精度も格段に上がっているのだろう。今年を騒がせた数々の「偽」の疑惑も、長年にわたる「粗」が表に出てしまった、という感をぬぐえない。言い換えるならば、「今年もさらに『偽』が隠せなくなった1年」だったと思う。 週刊誌でこんなことを言ってる評論家がいた。レコードの音はいい。昭和という、アナログの世界独特の温かさがある、と。レコードに記録されている情報の精度は極めて低い。だからこそ細かい粗が目立つことは無い。それはまた「昭和」というアバウトな時代を現している。全てにアバウトであるから、多少の嘘や粗は見えないし、そこからくる錯誤もある程度許容する人間の温かさがあった。 多少のごまかしは通用したのである。思えば個人情報という概念もなかったし、企業会計基準も緩やかだった。総会屋に便宜を図ってしゃんしゃんとシメても良かったのである。ケータイも無いからアリバイは何とでもなったし、営業マンは外に出てしまえばそれっきりという自由があった。人間様の味覚や嗅覚、長年の勘と経験等など、あいまいな基準で真偽の多くが決められた牧歌的な時代である。 それに比べて、現代における「0」と「1」の数字の羅列で情報が精査されるデジタル社会において、もはや昔のごまかしは利かない。日々、膨大な情報の処理をせねばならず、計算結果の不一致はただちにシステム障害、ひいては公共インフラの停止を招きかねない。そこから来るストレスは、人々の神経をすり減らし、メンタルヘルスに関わる問題となってくる。このようなシビアな時代に多くの人々がそれなりの努力をし、苦労をさせられている訳で、だからこそ今年も様々な事実が解明されていった訳である。それでもなお、日本全体が「偽」であると決め付けていいのだろうか。不本意な結果が出ることは多少あるだろうが、少なくとも現実世界で働き生活する人々の「真」を現している一語とは思えない。無数の人々の努力を認めない、高見の見物を決め込んだ傲慢な物言いに聞こえてならない。 もっとも、マスコミの報じる見出しだけ追っていけば、日本全体が「偽」に染まった1年だったと思えなくもない。ちなみに今年最初の「偽」を飾ったのは偽科学を垂れ流した「テレビ番組におけるデータ捏造」であったから皮肉だった。 最後に時代のウェブログさんのブログに興味深いお話が。「偽」をよく見ると「人」と「為」に分けられる。人の為に努力すれば「偽」もやがて本物になる、と。これには感銘を受けた。