作戦失敗を現場に責任転嫁~ノモンハン事件の陰惨な後始末
今年はノモンハン事件から70年ということで、新聞の特集記事やシンポジウム等が散見された。この事件は今から70年前、旧満州を支配した関東軍と、モンゴルを支配したソ連軍との間で起こった大規模な衝突事件である。衝突の原因は、満蒙国境の係争地を巡る駆け引きから戦闘がエスカレート、最後は機甲部隊を集中させたソ連軍に、関東軍第23師団が壊滅、要は日本軍の敗北に終わった。 この事件の特徴は、作戦の失敗を現場の指揮官のせいにした、ということであろうか。関東軍では、辻政信・服部卓四郎という二人の「秀才」参謀がいた。いずれも陸大卒業のエリート参謀である。彼らは「満ソ国境紛争処理要綱」なるものを作成し、軍中央に捻じ込んだ。好戦的な内容だけに懸念を示す人もいたが、積極策を否定しにくい空気に圧され、大本営も追認してしまう。 いざ、辻参謀の強攻策に従った第23師団は、ソ連機甲部隊に惨敗した。惨敗と言っても、個々の部隊はソ連軍に多大な損害を与えたのも事実であり、まずその偉功を認めるべきであるが、「陣地から後退した」などと難癖をつけられ、何人もの連隊長や中隊長らが自決させられた。例えば、捜索第23連隊長の井置栄一中佐は、補給が絶たれ全滅寸前の部下を包囲陣から脱出させたが、無断退却の罪を着せられ自決させられた。 そのくせ独断専行で惨敗を招いた辻・服部両参謀は、自決どころか一時的に左遷させられたぐらいで、再び軍中央に返り咲き、太平洋戦争を「指導」するのである。辻・服部などの「佐官風情」が、一師団の運命どころか国家の運命を左右する立場に居座り続けたのも異様だ。作戦成功なら指導層の功績、失敗なら末端の人間の責任か 陸軍中央も、惨憺たる結果に手をこまねいていた訳ではない。研究委員会が組織され、事件の教訓を活かすべく議論が行われた。ところが研究員の人々は、せいぜい末端部隊のあら捜しくらいしかさせてもらえず、A級戦犯格の辻政信に尋問することも許されなかった。彼らは、師団・軍全体の装備、関東軍の位置づけ、対ソ戦略はどうあるべきか、こうした高級統帥に関わる問題が根底にあることを認識していた。しかし、そのことを声を大に発言することが出来なかった。 作戦失敗の原因を身をもって知った隊長さん達も、多くが自決・粛清させられた。根本的な仕組みがおかしいのに、現場はその通りの対応を余儀なくされ、そして結果責任まで負わされたのだ。制度・組織・現場、これらの間の矛盾、まさに現代の私たちにも共通するテーマだと思う。戦死者の追悼という意味からも、この事件から大いに学びたいと思った。