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テーマ:鬱病(2269)
カテゴリ:躁鬱病とたたかう
少しだるい鬱である。こんな時は悲観的なことばかり考えてしまう。
ギリシャの哲学者アリストテレスは「人間は知を欲する生き物である」と論じた。 そして自分も知りたいことがいくらでもあり、それが自分の形成にもつながるものであると思っていた。 それ故に、無宗教、無思想の立場に立てるよう、相対的に物事を客観的に見えるよう心がけよう。勉強しよう。そんな気持ちでいた。 だが、それはもしかしたら無為な行為であり、それをすることは不可知であり、人間形成、精神において破綻をきたすのではないかという恐怖におののいている状態である。 ========後は、今の思いを吐露した長文なので読まなくてもいいです ======= まず哲学から始めた。哲学の系譜をたどってみた。古代ギリシャから、近代哲学となるデカルト、カント、ニーチェ、ヘーゲル、ハイデガーなど。 そこまでは、世の中とは何であるかとか、物とは何かといった概念で物を捕らえていた。西洋思想において、神から見た物、人などは、絶対的なものであった。それが故に、主観(見るもの:神、人)と客観(物、事)が説明できるとした合理主義的、科学主義的発想をしていた。 ただ、ニーチェ以降は、そういった概念をくつがえすようになってきて、 ハイデガーに至っては、「現存在(Da Sein:簡単に言ったら人)の存在とは何か」という存在論になってしまう。 でも、そこまではまだついていける。その後の、現代思想といわれる、サルトル、デリダ、ドゥルーズ=ガタリ、バルトー、ボードリヤール、フーコーなどが近代哲学に対する批判をするのである。 ますます、現代思想になってややこしくなってしまうのである。 自分とは何か。自分は自分である。これは、トートロジーと呼ばれる。同一性、自同律、AはAである。石は石である。それが違うのではないかなどと考えてしまう。小説家の故・埴谷雄高は「自同律の不快」といったが、自分が自分でなくなっていく。。。そんな不安感、恐怖感があるのである。 俺という皮が一枚、一枚はがれていくような・・・ はがれたときに、俺の本質ってのはあるのだろうか・・・ 俺は「本当に」俺なのか?自覚している(無意識でない)俺であるのか。 現代思想をかじったおかげで、戦後の日本の歴史とその背景、思想がおぼろげながらだが分かってきた。60年安保の発端、東大紛争の背景、その終焉。 その後の、世界的に広まる自由運動。そこには、押さえつけている権力からの解放を求めていた。また、マルクス主義者たちはセクトを作り、それぞれの方向に走り、壊れていき、今でも細々とであるが活動している。 が、学生運動で得られた結果が、結局、今の権力体制には勝てることが出来ない・・・という、シラケムードを向かえる。その後、80年代に入り、脱構築ブームが日本に訪れて、広告業界のコピーがちょっと変わった言い回しになったり、(「おいしい生活」とか。)言葉遊びをしたり、エッセイなどが流行ったり、軽薄なのがブームとなった。そしてバブルの時代を迎える。 ボードリァールの言う「消費社会」が到来したのである。 そして、バブルははじけ、経済は低迷、湾岸戦争が起き、そしてオウム事件があり、最近ではアメリカの9.11事件。それが引き金でまた湾岸戦争が始まっている。 日本人は、いや、俺は、こんな世の中に居て、何を考え、どう行動すべきなのだろうか。世界の万国共通語だから、英会話を習っている。 だが、英語は「本当にワールドワイドな」言葉なのか?? 最近、英語=万国共通語というのが、とても傲慢な考えのような気がしてならない。確かに世界会議などにおいては必須かも知れない。ビジネスでも必須かも知れない。でも、一般市民レベルに落としたら、本当に必要なのか? 英語圏以外の国の普通の人は英語話せるのか??? 欺瞞なような気がするのだ。なので、語学というのも悩みの種なのである。 何年も前から韓国ブーム(韓流ブーム)がある。世人(大衆という言葉をハイデガーの用語にあてはめてみた)。 日本のお嬢様がた(みのもんた風に言う)ちゃっかり騙されているが、韓国の人は日本のことを何一つ分かっていない。反日教育を徹底的に受けて居るため、反日運動はとても激しい。観光、TVドラマとかでちゃっかり儲けながら、実は日本を毛嫌いしている韓国。それでも、ニコニコとパチンコ「冬のソナタ」を遊んでいる方々の気がしれない。 中国も然りである。激しい反日運動と、古来からある中華思想のおかげで、いまだに日本という国は属国扱いだ。韓国が兄なら日本が弟だったりする。 が、日本企業は、労働賃金が安いので、工場などを中国に移転する。 おいしいところだけ持っていき、韓国とタッグを組み、戦後補償を求めてくる。いつまで日本が金や物資などを貢げば、補償はちゃらになるというのか。日本という国を食いつぶすまでやるだろうな。 なので、極東アジアはとても緊張の度合いがあり、俺は信じることが出来なくなった。かといえ、アメリカになぁなぁに擦り寄る姿も見苦しい。 確かに地政学からしたら、日本は要所である。北朝鮮や中国からの圧力から守るための壁として。日本は軍事力で守ってもらうため。 だが、メンツの問題で、起こった戦争に、なぜ自衛隊がいかねばならぬのか。 あれは民族紛争であり、宗教戦争でもある。一神教が故に、他の宗教を認めない。弾圧するという歴史上何度も繰り返されてきた行為だ。 頭を抱えてしまう。。。 日本の政府はというと、改革改革といいながら、富めるものは富み、貧しいものは貧しいという構図にしてしまった。自民党は、保守党でありながら、実は隠れて左の考えの人も居たりして。また、野党第1党の民主も結構左の方もいらっしゃるので、社民党、共産党だけが、左傾向の党ではないのだ。 (一応言っておきますが、私は右の人でもないです) 本当にどうなっていくのは日本は。そしてそこに属している俺はどうしたらよいのだろうか。信じるものが何もない。自分が自分であるというテーゼさえ、曖昧模糊となっている状態で、どう動けばいいのか? 考えれば考えるほど、苦しくなり、今までカバーしてきた自分という皮膚がうろこのように取れていくのである。 その時、俺は狂気に陥ってしまうのだろうか。自分が自分でなくなるとき、そのときは、一般的にいうところの、統合失調症となってしまうのだろうか。 俺という存在。俺。俺は俺である。そう認めることができるのなら良いが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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