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テーマ:鬱病(2269)
カテゴリ:躁鬱病とたたかう
今日も朝からしんどい一日が始まった。
まずはカミサンを見送ってから、少し休み、 その後、朝ごはんを食べて、新聞を読み、 しばらくまどろむ。 今日は英会話どうしようかな。。。 休もうかなぁなどと弱音を吐く。 だが、今日は割りといい天気。 明日は雨模様、時には雷もという話。 もしそうならば、今日はなんとか英会話に行っておいて、 明日休めばいいや。晴耕雨読にしようなんて理由をつけて、 少し寝てから、身支度を整えて、名古屋に向かう。 いつも通り2時過ぎからのレッスンをする。 自分は3コマ受けて、さくっと帰ろうと画策していた。 だって、しんどいもん。 今日は水曜ということもあり、おじさん1人(俺もおじさんだな。)、お嬢様(みのもんた的に)が二人というメンバー。 今日の最初の講師はアメリカン。この人はとてもまじめな講師なので、 結構難解なテーマを持ち出すので少々困ったりする。 いや、考えることは嫌いではないのであるが、英語で表現することが難しい。 一人のお嬢様がまたもや「ダビンチコード」をネタにした。 自分としてはあちゃーって感じである。これでこの講師と3回くらいこのテーマに取り組むことになる。正直言って、他のテーマにして・・・って思ったりもする。 宗教観などは、日本人でも難しいテーマである。結構困る。 そして、途中から入ってきた女子大生さんは初めてこのルームに来たみたいで、 あまりのハイレベルさに驚いていた。休憩時間にフォローしたりする。 たまにはこういうのはあるけど、どの講師もこんなに難しいことはしないからねー。とか。 でもそういうアドバイスなども、時によってはお嬢様方の反感を買ってしまったり・・・ 本当に「お習い事」って難しいですねー(苦笑)。 まぁ、もっとも自分のことも「得たいの知れないプー太郎」くらいに思っているかも知れないけれどね。 自分としては、英会話はリハビリの一環であり、人間観察が出来、ついでに英語が少し話せればいいかと言う感じなので、どうってことないのだが。 お嬢様たちは、やはり英語が上手になると、ムテキング(懐かしい・・・)になるようだ。 もっとも、初心者の女子大生さんを気にかけて休憩に外出してくださったので良かったのだが。 やはりベラベラ一人で講師と話してもらうのも、初心者にとっては大きな壁ですからねー。 自分は競輪で言う、マーク屋と言って、先に行く者の後ろにへばりついていますから、 こういう英語の使いまわしをするのかーって勉強になりますけどね。 まぁ、そんなこんなで3コマが過ぎ、帰る時間になったので、おとなしく電車に乗って帰りました。ノルマ終了! -------------------------------------------------------------------------------------- タイトルに挙げた「脱構築」ですが、まぁ現代思想用語なのですが、 ぶっちゃけ簡単に言うと「すでにある決まりや法則、組織などの仕組みを少しずらして考える」 という思想です。(間違っていたら指摘してください。現代思想に詳しい方) 1970年代は、反体制の時代で、学生運動が激しかった時代です。 安保闘争などがあり、国家や体制に対してデモや運動を行い、これまでの考え方、押し付け方を「俺たちでぶっ壊そう!」っていう考え方でした。 これは日本に限らず、欧米でも同様の運動がおきていました。 ですが、東大紛争も終わり、浅間山荘事件などもあり、最終的には体制を壊すこと、打ち破ることなんて出来ないんだという、「反省とあきらめ」が生まれました。 その頃、TVではドリフターズなどが流行っていましたが、からすの勝手でしょー。とか、 シラケムードという流行言葉は、この「喪失感」から来ています。 80年代は打って変わって、体制に歯向かうことは在りませんでした。 むしろ体制を茶化したり、模倣することで、存在をアピールするという現象が起こりました。 例えば、糸井重里氏や南伸坊氏、清水ミチ子氏、みうらじゅん氏などのちょっと知識人、コピーライタ??などの台頭や、笑いの文化、PARCO的文化、軽薄な流れ、ブーム、そういうのが流行りました。(そういえば、確か糸井さんって学生運動の上層部の方だったような・・・まぁ詳しくは述べませんが、世渡りのお上手な方もいらっしゃるようで。。。あっ、これは批判的な意味ではないっすよ(汗)) 私は丁度80年代という文化に浸った人間です。テクノサウンド大好きだったし、ゲーセン入りびたり、パックマンは鍵の十何面までのパターンを覚え、ゼビウスに感動し、16面までの隠れキャラを覚え、下手ながらも16面までたどり着いたり、ファミコン当然やって、マイコン漬けの毎日。80年後半には東京にいたからバブルな東京を満喫しと、恩恵を受けていました。が、なぜ、「80年代が80年代だったのか?」ということは考えていませんでした。 病気になり、しばらくして、哲学をまた学ぶことによって、「80年代」の意味が分かってきました。そして、自分は良い意味で80年代的な発想で、物事を考えて、行動した方が良いのではないか?などと、最近思うのです。 つまり、国や体制などに文句をつけるのではなく、半歩、時には一歩ずらして考えてみる。 たまには、ひねりを入れてみる。語呂合わせをしてみる。茶化してみる。 そうすることで、色々な物の見方が出来、柔軟な考えが出るのではないか? そう思うのです。他人に対してもひとつの見方だけでは、その人は分からない。 時間をかけて、いろんな角度から見て、判断する。 そうすることで、良いこと悪いことが客観的に捕らえられるのではないか? と思うのである。それは自分に対しても同じこと。 自分を卑下したり、批判することって誰でも出来る。 そうではなくて、違う側面から自分を見ること。 それが大事なのではないだろうか。ちょっとひねりを利かせて自分を見る。 ちょっとずらして自分を見る。 そうした「俺流脱構築」で、ひとつの考えにとらわれなければ、 もう少し楽な生き方も出来るんじゃないかなー。 なんて思っています。 こんなすちゃらかした考えはいかーん!!!って思っている方がいらっしゃれば、 コメントお願いしますねー。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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