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テーマ:鬱病(2269)
カテゴリ:躁鬱病とたたかう
髪を切った私に 違う女みたいと
あなたは少し照れたよう 前を歩いてく 綺麗だよとほんとは 言って欲しかった あなたはいつも“ためらい”の ヴェールの向こうね ================================================================= ご存知の通り、松田聖子の「夏の扉」です。 まったく関係ありませんが、髪が伸びて暑苦しくなってきたので、 またもやスポーツ刈りにしてきました。 いつも家内には不評なのですが・・・ 家内は、坊ちゃん頭----たとえるならば、「羽生善治」のような髪型が好みらしく、 それは自分にはとてもふさわしくないと最近思っています。 自分は「汚れている・汚らわしい」人間なのだと思っていますから。 松田聖子の歌詞の最初を書いたら、学生の頃を思い出しました。 専任の教授が熱狂的な「松田聖子」ファンでして、何かしら話題に上っていました。 が、ゼミには20人~30人くらい生徒が居て、9割が女子学生でした・・・。 男性は2、3人程度であり、肩身の狭い思いをし、 また、大奥ではありませんが、「女の園は、げに恐ろしきところ・・・」と 痛感しておりました。 ========================================================================= 昨日の日記の最初で、「Fly Me To The Moon」を紹介しましたが、 昔を知る方ならば、ジャズのスタンダードとして、 また、NASAのアポロ計画などに使われた名曲として、 そして、今の若い人たちには、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」のエンディング曲として、 また、80年代のバブル期に生きた方ならば、「私をスキーに連れてって」の パロられた大本??(って勝手に思ってますが)などと、 幅広い層に受け入れられている歌あるいは曲ですよね。 自分もこの曲は大好きです。 「エヴァンゲリオン」では、エンディング曲ながら、良い使われ方、効果的な使われ方をしていましたね。 「エヴァンゲリオン」は、私にとって、非常に思想的に影響を受けたアニメだと思っています。何やかんやで大騒動を巻き起こしたアニメですが、もともと結論の出ない(出るはずの無い)内容でしたので、自分としては当然の帰結であり、もし、結論が見出せるのならば、アニメーション監督ではなく、一人の思想家、哲学家として食っていけると思います。 映画版のラストで首を絞められるアスカがシンジに言う「気持ち悪い」という一言が、とても”アンビバレント”で、シニカルでもあり、なんとなく、ヌーベルバーグ系のたとえばジャン・リュック・ゴダールの映画のラストのような感じを受けました。 来年以降に「本当の完結版(らしい)映画」が3部作で出るそうなので、 いまさら感もありますが、楽しみにしていようと思っています。 ============================================================================ 私のことをkとおっしゃってくださる方がいます。 なんだか、夏目漱石の「こころ」を想起してしまいます。 が、私は夏目漱石における、Kのような、芯のしっかりした、 真面目な人間ではありませんので、おもはゆく、感じています。 先に述べたように、自分は「汚れている」人間なのだと思っていますから・・・ Kよりも、むしろ、「先生」のような立場の方がよりふさわしい気がします。 ============================================================================ 昨日の日記にてアドバイスくださった方、ありがとうございます。 おそらくこの日記をごらん下さっている皆さんも、もしかしたら、 ご心配をおかけしているかも知れません。 頑張りすぎないというのは、そう思っています。 が、きっとこのような病気と言うのは、ON/OFFできれいに切り分け出来ない 病気なのだと思いはじめました。 病気になり、OFF。病気から回復してONと言った、切り分けがきれいに出来たら、 本当に楽なのですが、そうは言ってられなかったりします。 このあたりが日本人らしい考え方なのかも知れませんが、 「あいまいに」「いい塩梅で」復職するしか手はないのだろうと考えます。 西洋の方の考え方に触れると、必ず問題が生じるのが「イエス」「ノー」の割り振り方です。 必ず、問われます。これに対してお前はどう思うのか?イエスか?ノーか? 中途半端は許されません。必ずどちらかを選ばなければいけないのです。 それは大変面倒です。人間の心は二元論的に言えるわけがないのですから。 二元論的にいえたら、人生がどれだけ楽になるでしょうか。 そこで人は悩むから、Yes、Noでは答えられないことがあるのでしょうね。 汚れた部分を持ちつつ、でも、生きるために最善を尽くす。 偽善であることを知りつつも、ビジネスのために最善を尽くす。 矛盾の中に居ることを知りつつも、抜け出せないで居る・・・ だから、最初に戻りますと、自分の中の鬱というのは、簡単には治らないんだろうと 考えています。そうならば、持病と考えて、付き合わざるを得ない。 他の病気を抱えた社員さん、糖尿病だとか、腎臓が悪いとか、心臓が悪い、ヘルニア持ちとか・・・そういう方は、働きつつも病院に通い生活しています。 自分だって、せめてそういう生活基盤に戻った方がいいんじゃないか? いや、戻るべきじゃないか?と考え、その帰結が「甘えない」と言う一言で 表されたのです。 「いい加減」でいいじゃないですか。鬱を抱えて仕事したっていいじゃないですか。 そりゃ他人様みたいに100%仕事が出来ないかも知れない。 でも、社会の一員として参画できるのなら、それはそれでいいと思っています。 もし、それを会社が、組織が、社会が、世間が許さないと言うのならば、あるいは排除すべき存在をみなすのであれば、それはそれで致し方ない。 社会的に言って、たとえば会社を支えている人(稼ぎかしら、セクション)が2割居るとして、残りの8割はその恩恵で生きているという説があります。 それも、排除するというとてもラディカルな考えであれば、 自分も排除されてやむなしと思っているのです。 少なくとも、今の世界は、日本は、平等ではない。 平等という幻想の上に生きています。本来ならば、競争社会であり、競争に勝ったものがいい餌を食う権利が与えられます。 だから、自分も競争がしたいのです。 なぜなら、自分とは、何億もの精子が競争して、たった一つの精子が卵子のゴールにたどり着き、生まれてきた動物なのですから、本能的に競争することは当たり前だと思っています。 いろいろ書きすぎました。ご意見やご反論もあるかも知れませんが、 「馬鹿がまた変なことをほざいている」とでも、思ってくだされば、 結構です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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