体たらく
海軍乙事件 吉村昭 1973年 山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機待ち伏せ攻撃による戦死が昭和18年4月18日。同行の参謀長搭乗機は、不時着し、参謀長は生存し、海軍甲事件と呼んだそうだ。 後任の古賀峯一連合艦隊司令長官の搭乗機は、天候不順で遭難し、殉職したのが昭和19年3月末。同行の参謀長搭乗機は、セブ島沖に不時着し、セブ島ゲリラに捕らえられ、後に陸軍の交渉により、追い詰めていた陸軍の包囲を解くことを条件にゲリラから解放されたそうだ。海軍乙事件と呼ぶそうだ。 ゲリラに捕まる際に最高機密の作戦計画と暗号書を紛失し、ゲリラに武器供与していた米軍に渡ってしまっていたそうだ。参謀長らは、解放後も漏洩はないとし、海軍も漏洩なしと判断し、作戦と暗号方式とも変えずに惨敗に突き進んだそうだ。この参謀長は、俘虜査問もなされず、第二航空艦隊司令長官に栄転し、特別攻撃に同意して実行させていったらしい。 「大本営が震えた日」(吉村昭)では、開戦時の奇襲命令書の漏洩を防ぐため、命令書輸送旅客機が不時着した時に、作戦命令書を完全処分した活動が克明に描かれていた。それが、敵中を突破して帰還しようとして奮戦死した総司令部参謀杉坂共之少佐で、海軍乙事件とは、別次元だ。作戦の結果も、奇襲の成功に比し、反転攻勢の大失敗と天地の差だ。 高級将校の能力、識見への不信はぬぐい難い。吉村昭は、事実と事実をつなぎ合わせて、体たらくな真実をあぶりだしている。