吹屋 銅山と弁柄の産業盛衰史
吹屋にあるベンガラ館の受付のお婆さんによると、吉岡(吹屋)銅山は、807年に発見されたと伝えられていて、その千年後、銅山の捨石であった硫化鉄鉱がローハの原材料となることが発見され、ローハから弁柄を製造する技術が1761年には確立され、弁柄の生産が吹屋で本格化したそうだ。 それから、大正時代まで大繁盛し、街は華やぐまでに活気づいていたそうだ。昭和の銅山の斜陽化により、昭和47年に銅山閉鎖、昭和49年に弁柄製造の停止となり、街から活気が失せてしまったそうだ。 残された屋敷の数々は、往時の栄華を思い起こせる立派なものばかりだ。町並みが残され、過疎の地域が鉱山街の歴史遺産として地域の人々に大切にされていた。郷土史を教えてくれたお婆さんには、老いても克己の強い精神と、人々が去ってしまっても衰えぬ郷土愛に、頭が下がった。高梁市吹屋 残された建物の中でも特に大きい館、広兼家、片山家が見学できた。広兼家は、銅山経営、ローハ製造で財をなした庄屋だそうだ。その館の威容は目をみはるばかりで、庄屋の権勢を今も顕示しているかのようだ。一方、片山家は、ローハから弁柄の製造で隆盛を極めたそうで、建物は意匠に富んだ商家の典型的なものだそうだ。別窓表示別窓表示 野田の高梨家や、水海道の坂野家など、農村部に残された庄屋の屋敷をいくつか見学したことがあったが、建物、庭、建具の数々から醸し出される風雅で穏やかな雰囲気にとても和んだ。さらに、飢饉や災害時の救民の功徳の事跡には、庄屋の人徳が農村の支柱になっていたのだろうと、安らかな精神の系譜を思ったりもしたのだが、広兼邸の見下ろされているように感じられる威風には、鉱山と鉱業の庄屋の威勢が表れていて、その生業の持つ荒々しさが反映しているのではなかろうかと感じた。 建物にも、鉱山、商業、農業、それぞれの表情があった。野田市高梨家