鶴首城址 備中、高梁市成羽 2021.2
案内板によると平安末期に築かれ、江戸時代の一国一城で破城となった山城らしい。(鶴首城址の岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 戦国時代、三村家親が城主となり、備中全域に勢力を拡大してからは、家親は備中松山城に移り、かわって三村親成が城主となったらしい。 三村親成は、家親と並び、毛利からの信任が厚かったそうだ。家親が火縄銃で宇喜多直家の家臣遠藤秀清(後に浮田家久)に暗殺された際、親成は何事もなかったかのごとく兵を指揮し、宇喜多直家は暫く暗殺を信じなかったらしい。錬磨の武将であったようだ。 毛利が宇喜多直家と和睦したため、三村元親は宇喜多は宿敵として毛利から離反し、織田方についたが、三村親成は織田を信用できないとして毛利方にとどまり、備中兵乱を終えたらしい。 三村氏が滅んだが、三村親成は毛利から減封されるものの成羽城は安堵されたらしい。徳川の世になると城を追われ、福山で召し抱えられたらしい。 親の仇を貫くために毛利から離反した三村元親、信任の厚かった毛利に離反しなかった三村親成、いずれも戦国武将の生き様と思う。下克上の渦の中に信義の杭が二本のぞいているようだ。 鶴首城も備中松山城に劣らず立派な山城だったに違いない。 北側の成羽川対岸からの鶴首山。橋のたもとあたりが船着き場らしい。高瀬船の並ぶ姿を思った。太鼓丸。太鼓丸展望台の眼下には成羽小学校があり、その塀は廃城後にしつらえられた陣屋の壁で、細い武者走りが見える。二の丸もあり、大きな山城。谷が要害となり堅固な縄張り。尾根が続く南には深い堀切があった。曲輪がいくつも続いていた。破城により石垣はくずれ、苔むした石が散らばっていたが、主郭の一部残った石垣が確認できた。主郭から町と成羽川が見下ろせた。にほんブログ村