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テーマ:温泉について(1677)
カテゴリ:温泉
備中足守藩についてWikiでは、「9代利徽の寛政11年(1799年)所領のうち約2万2千石が陸奥国伊達郡・信夫郡に移されたため、決して豊かではなかった藩の財政は窮地に立たされた。これ以後、旧領回復が歴代藩主の悲願となる。11代利愛の天保2年(1831年)嘆願の甲斐あってか、移転地の約半分が賀陽郡内に戻された。」とある。 最上荘の由来書きには、文政年間に藩が掘らせたとある。文政年間は、1818年から1829年までで、藩の財政が窮地の時代にあたるのだろう。最上荘の由来書きには、不作の年でも豊かな実りをえる地の報告があり、藩が真偽を確認するために足軽に掘らせてこの鉱泉を発見したとある。藩が動く背景があったようだ。 備前岡山藩は、湯治場として小森温泉を開削し、備中足守藩は、稲の生育調査でかしお温泉を開削したことになる。岡山藩は、新田開発により豊かで、諸国が凶作で一揆が発生する時も岡山藩では大事はなかったとも読んだ。国境に隣りあう小藩と大藩では事情が大分違うようだ。 足守の藩主の陣屋からこの地までは、3キロほどしかはなれていない。豊かな農地の発見は吉兆であったにちがいない。 三回目の利用だったが、去年と変わらず、まわりの水田の稲は豊かに成長していた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 25, 2020 07:11:14 PM
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