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カテゴリ:城
備前児島の常山は標高307mで、山頂の常山城跡(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)からは、南に高松の五剣山、屋島、讃岐富士、瀬戸大橋など瀬戸が一望できた。北東には、早島、岡山、児島湖が広がり、東には、両児山、八浜、麦飯山が見下ろせた。
戦国時代、常山一帯では、毛利・宇喜多勢が三村氏を滅ぼした備中兵乱の最期の合戦となる常山合戦、毛利勢と宇喜多勢が争った八浜合戦が繰り広げられたらしい。 その後、中国国分けで毛利から児島を手に入れた宇喜多秀家は、高松城水攻めでの築堤の指揮者等を使って、早島から酒津まで長い堤を築き、土地を広げたと。宇喜多堤と呼ばれてきたそうだ。 吉備穴海は、平安時代から営々とつづけられてきた干拓で広大な田畑に変わったらしい。干拓は、昭和の児島湖の竣工で完成したと。児島湖は日本で最初の人工湖となるらしい。 常山山頂からは、平安時代から昭和までの治水と干拓の歴史が一望できると言うわけか。 常山城の最高部の曲輪跡。本丸らしい。常山合戦で自害した上野隆徳の碑がある。岡山県によると「現在残されているこれらの縄張りは、宇喜多氏が岡山城の軍事的な外構えを形成するため、さらに瀬戸内海路に関わる岡山の南口として整備したと考えられ」るらしい。常山合戦、八浜合戦時の縄張りは、今とは違うかも知れない。戦国の城の盛衰を物語る城史と思う。 瀬戸の向こうに五剣山、屋島がかすんで見えた。24吋別窓表示 正面の田と山の境にある一番手前の低い丘が両児山、そこから右の田と山の堺が湾曲しているところに八浜かと。さらに写真の一番手前の右外には麦飯山がある。常山合戦で、常山城城主は上野氏から毛利氏にかわり、七年後、宇喜多氏は両児山城を拠点にして常山城と麦飯山城に構える毛利勢と八浜で合戦することとなったらしい。この地は備前と備中の境で、瀬戸内海路の要衝でもあったらしい。 24吋別窓表示 江戸時代は、早島の先の干拓となっているので、早島が陸続きになったのは、室町以前となるらしい。早島の東の妹尾兼康が高梁川の湛井堰を整備して十二箇濠用水の原型を始めたのが、平安時代らしいから、平安以前か。 植松岩實著:岡山平野の歴史地理 縄文前期 奈良時代 中世末 現代 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 26, 2024 06:14:28 PM
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