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カテゴリ:城
経山城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)は、毛利方の中嶋元行が小早川隆景の城代とあった。備中兵乱時、伊與部山城に入った小早川隆景からは、北に見える位置だ。
経山城跡からは、三村方の荒平山城跡が山の間から見えたが、その背後の正木山から先にある鬼身城跡は高度が下がり、見えない。秋葉山からの稜線の先にある井山城のあった位置も見下ろせた。高梁川に平安時代から続く湛井堰は、稜線の陰になり、見えなかった。 南には、正面に福山があり、その中腹の三村方の幸山城は、よく見えたはずだ。落城の様子ははっきりととらえられたと思う。遠くには、三村方の最後に落城した常山が霞んでみえた。 東南には、秀吉が水攻めした備中高松城跡が緑の点で見えた。経山城の中嶋元行は、高松城城主の清水宗治の娘を妻にしており、高松城に籠城していたそうだが、清水宗治の自刃により永らえたらしい。毛利に仕えた後、帰農し、経山の麓に暮らしたらしい。屋敷跡には記念碑がのこっているらしい。戦国を生き延びた武将の穏やかな晩年の地だったのだろう。訪ねてみたい。 この屋敷は、もともと、経山城での生活の場であったらしい。山中鹿之助が備中松山城の毛利輝元のもとに連行されるとき、ここに立ち寄り、中嶋元行から饗応されたらしい。鹿之助は、この後、備中松山城目前の阿井の渡しで謀殺されることを考えると、すくわれる思いが湧いてくる。 24吋別窓表示 鬼ノ城西門から見た経山。西をおさえるには、鬼ノ城よりも経山の方が張り出しており、適地であることがわかる。 備中兵乱の時、毛利勢は、山陽道から玉島往来に入り、鬼身城の西の峠を越えて美袋に入り、備中松山へ進軍したのだろうか。経山からは、進軍の様子が見えただろう。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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