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カテゴリ:城
御津金川は、旭川に宇甘川が合流する地点で、交通の要衝であったようだ。宇甘川を遡ると川の右岸山上には松田氏家臣であった伊賀氏の虎倉城があった。
備前松田氏は、もともと相模の松田にあったが、軍功により備前に領地を得て後、金川城(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)を設け、以来、城主として治めていたそうだ。北の丸、二の丸の他に、道林寺丸、出丸があり、幾重にも曲輪が連なり、各尾根沿いには、堀切がいくつもしつらえられ、斜面は急で、堅固な規模の大きい山城であったらしいが、1568年、宇喜多直家に調略された虎倉城の伊賀久隆に滅ぼされたと。 松田氏は日蓮宗に厚く、寺が設けられた道林寺丸跡もあった。北の丸、本丸、二の丸には、深い井戸がそれぞれあり、特に本丸の北面直下にある天守の井戸は、深さ10.8m、径8mだそうだ。井戸の規模と曲輪の数からすると大勢が詰めたと思われ、城は統治と信仰と武芸の場であったのだろう。 24吋別枠表示 山上に金川城のある臥龍山と旭川 日蓮宗の信仰が厚かったらしい。吉備高原をさらに西に行くと西身延と呼ばれる寺もある。 道林寺丸から宇甘川上流を望む。伊賀勢の侵攻を眼下にみたのだろうか。 24吋別窓表示 北の丸東側 旭川を眼下に。 北の丸と本丸の間の東斜面にある白水の井戸。深く、底が見えなかった。 本丸の北の直下にある大きな井戸。直径8m、深さ10.8mと。 本丸跡。石の様子から石囲いや館を思った。誰かが拾い上げた瓦の破片もいくつか。 二の丸の杉の木の井戸。 出丸から旭川の下流と御津金川の街を眼下に。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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