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カテゴリ:城
案内板によると、もともとは、15世紀後半からあった城らしいが、16世紀後半に宇喜多勢の伊賀久隆が城主となったときに拡充されたらしい。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)
伊賀久隆は、金川城の松田氏の家臣であったが、宇喜多直家に調略されて、堅固な山城の金川城を攻撃して陥落し、松田氏は滅んだと。宇喜多勢の中では力の大きい存在となったらしい。 1580年の虎倉合戦では、毛利方が竹の荘に進出した後、備前福山城をおとし、虎倉城をめざして進軍するも、下加茂で伊賀勢が襲撃し、敗走させたらしい。ところが、その翌年、伊賀久隆は謎の死をとげたと。死期の迫った宇喜多直家による謀との説があるらしい。 伊賀久隆を継いだ家久は、宇喜多から離反し、毛利方につき、宇喜多勢と戦ったらしい。備中高松城の戦いで毛利が秀吉と和睦したため、伊賀家久は、秀吉方の宇喜多領にある虎倉城をでて、毛利領へ転出したと。 なんともめまぐるしい下克上で、宇喜多勢による父親の暗殺に抗して、備中兵乱で途絶えた三村氏と似たような因縁話だ。 蛇行する宇甘川を眼下に見下ろす虎倉城跡は険しい山容で、その姿がますます厳しいものに思えた。 24吋別窓表示。右の山の頂の後ろに出丸がある。麓の市場集落の宇甘川対岸より。 本丸 本丸の下の曲輪 出丸 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 25, 2024 10:28:45 PM
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