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テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城
滝口康彦の備中兵乱の純歴史小説「鬼哭の城」によると、備中兵乱では備中松山城は全山城塞化されたものの、城主の叔父の裏切りにより寝返りが続発して、毛利・宇喜多勢の攻撃に三村勢は壊滅してしまう。備中松山城については、以下の描写がある。
「備中松山城は、東は尾根続きで吉備高原につながり、西もまた甲部川を渡れば、吉備高原が備後まで伸びている。 松山城は、最高峰の大松山が約四八〇メートル、小松山、天神丸はやや低い。石垣はないが、三面の断崖絶壁が寄手を阻む天険をなしていた。」と。 甲部川とは、現高梁川のことで、現最高峰は天神丸487m。地図の等高線を追うとまさに記述のとおりだ。城からは直下に高梁川の深い碧の川面が見えた。 その毛利も関ヶ原では敗北し、当時の絵図を見ると城は荒れていたらしい。江戸期に入ると修復が始まり、現在の姿の原型が整えられていったらしい。 備中兵乱から約三百年、備中松山藩主板倉勝静の幕末の激動の時代、山田方谷が起用され、藩をあげて倹約、殖産に励み、財政再建がなされ、城の強化もされたらしい。三方の断崖以外に唯一尾根が続く地点の整備はこの時らしい。 「大たわの堀切」とその番所がそれで、城内最大の堀切に防備の工夫が施されたらしい。「たわ」とは、撓む・たわむからきている言葉で稜線の鞍部をさすらしく、まさにこの地点を表している。 (岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 板倉勝静は名君でその事績を追うとドラマチックな人物像に心が震えてくる。老中首座として活躍し、闘う姿は好ましい。 城主が老中首座として幕府にあって藩には不在の中、鳥羽伏見の開戦により朝廷から備中松山藩追討令が岡山藩にだされる緊急事態が勃発する。もともとは、長州とは戦うつもりであった松山藩であったらしいが、岡山藩に対して無血開城するように藩論をまとめ、藩と領民を救った方谷の舵取りは、実学と実践にたけた学者がなした業績として、当時の学問の現実的な力に改めて目を見張る。 戦いの備えは怠らず、情勢を見極め、領民と藩を救った手腕は立派なものだと思う。江戸の無血開城に先立つこと三ヶ月の事だったらしい。 いまある見事な城のこの姿は、勝静と方谷なしには、残っていなかったと言うことか。 24吋別窓表示 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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