|
テーマ:城跡めぐり(1258)
カテゴリ:城
伊勢新九郎盛時・北条早雲は、荏原荘の半分を支配した備中伊勢氏の子としてこの地に生まれたと説明されていた。一介の武士が戦国大名になったとの話は、現代の歴史研究によりただされ、立派な出自が明らかになったと。この城で育ち、京で幕府に仕えた後、兄姉が嫁いだ今川家の家督争いに加勢するため駿河に下り、戦国大名にのし上がっていったらしい。(岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら)
荏原荘は、古く、那須与一が屋島の合戦の功績により得た地でもあって、下野に戻る前、この城の北西にある小菅城にいたことがあるらしい。 この地は、もともと古代より交通路として栄えていたようで、大和朝廷と太宰府を結んだ山陽道の備中駅家(うまや)のひとつ小田駅家は、この城から東に少しいったところにあったらしい。 備前、備後の山陽道は、中世には、ルートが変わったらしいが、備中のルートは、古代、中世、近世と変わらず、古代の外交使節の往来、中世の源平の往来、元寇の鎌倉武士の往来、足利尊氏の九州からの大軍、戦国時代の毛利や秀吉の進軍、江戸への大名行列など、この地はつぶさに見てきたわけか。 東側の神代町からの遠望。24吋別窓表示 主郭のあったところ。山陽道と笠岡往還を見下ろす眺望。旗指物がつづく様子などを想像してみた。笠岡往還で海にでれば笠岡城に村上海賊が在ったらしい。 眼下の山頂に出城の横畑があったと。 平坦な頂には、山上山城があったと。 馬の文字の入った遺物が発掘されたと。今では井原線の高架下となり、痕跡はないと。 191が高越城。山城がいくつもつづく、要衝の地。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 25, 2024 10:24:22 PM
コメント(0) | コメントを書く
[城] カテゴリの最新記事
|