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カテゴリ:イマジン
数ある「東大の日本史」の傑作問題の中でも、受験生ならびに筆者が現在身を置く予備校界にも衝撃を与えたのが1983年度の問題である。
【問】 次の文章は、数年前の東京大学入学試験における、日本史の設問の一部と、その際、受験生が書いた答案の一例である。当時、日本史を受験した多くのものが、これと同じような答案を提出したが、採点にあたっては、低い評点しか与えられなかった。なぜ低い評点しか与えられなかったかを考え、(その理由は書く必要がない)、設問に対する新しい解答を5行以内で記せ。(1983年度第1問) 受験生の答案にダメ出しして、数年前と同じ問題をもう一度出題した。 当時は、「この答案例はとある予備校の模範解答である」という、まことしやかな風説が流布していた。これは事実ではないにしても、この問題を出題した東大の先生が、受験生たちの答案に満足していなかったことは明らかである。 東大の先生が受験生の答案にダメ出しして再出題したのは、次のような問題である。 次の文章は、数年前の東京大学入学試験における、日本史の設問の一部と、その際、受験生が書いた答案の一例である。当時、日本史を受験した多くのものが、これと同じような答案を提出したが、採点にあたっては、低い評点しか与えられなかった。なぜ低い評点しか与えられなかったかを考え(その理由は書く必要がない)、設問に対する新しい解答を150字〔句読点も1字に数える)以内で記せ。 ~~~~~~~~~~~~~ 次の(ア)~(ウ)の文章は、10世紀から12世紀にかけての摂関の地位をめぐる逸話を集めたものである。これらの文章を読み、下記(エ)の略系図をもとにして、設問に答えよ。 (ア) 967年、冷泉天皇が即位すると、藤原実頼が関白となった。しかし実頼は、故藤原師輔の子の中納言伊尹ら一部の人々が昇進をねらって画策し、誰も自分には昇進人事について相談に来ないといって、自分が名前だけの関白にすぎないことを、その日記のなかで歎いている。 (イ) 984年、花山天皇が即位し、懷仁親王(のちの一条天皇)が東宮となったとき、関白は藤原頼忠であったが、まもなく故伊尹の子の中納言義懷が国政の実権を握るようになった。かねがね摂関の地位をねらっていた藤原兼家は、自分が将来置かれるであろう立場を考えたすえ、しばらくのあいだハ,その野望を抑えることにしたという。 (ウ) 1107年、堀河天皇の没後、鳥羽天皇が即位したが、藤原公実は、自分の家柄や、自分が大臣一歩手前の大納言であること、それに摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行があることなどを理由に、鳥羽天皇の摂政には自分をするよう、天皇の祖父の白河上皇に迫ったが、上皇はこれを聞きいれなかった。 (エ)略系図 (注)1,2,3…13は、本系図における皇位継承順、(1)(2)(3)…(11)は、同じく摂関就任順を示す。 〔設問〕 藤原実頼・頼忠が朝廷の人々から軽視された事情と、藤原公実の要求が白河上皇に聞き入れられなかった事情とを手がかりにしながら、(ア)(イ)のころの政治と(ウ)の頃の政治とでは、権力者はそれぞれ、どのような関係に頼って権力を維持していたかを考え、その相違を150字以内で述べよ。 〔答案例〕 (ア)(イ)は、摂関時代のことを述べた文章で、この時代には、摂関家の推薦により高い地位とよい収入とをえようとした受領層の支持を受けて、摂関家が、政治の権力をにぎった。(ウ)は、院政時代のことで、この時代には、権力者の上皇が、下級貴族や武士を院の近臣として組織し、その力を背景にして権力をにぎっていた。 藤原実頼・頼忠、および藤原公実という名前をご存じだろうか? きっと知っている人はそう多くないであろう。当然である。教科書での扱いはほとんどない。 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は自分のためにあるようなものだ。満月のように何も足りないものはない)といった歌を詠んだことでも有名な藤原道長とその子・頼通は、摂関政治の最盛期を極めた人物としてよく知られている。 しかし、彼らより少し前の時代に生きた藤原実頼・頼忠父子は、10世紀の摂関政治の時代に関白となったものの、道長・頼通父子のような権力を持ち得なかった。 一方、藤原実頼・頼忠父子よりも後の時代の藤原公実は、11世紀後半に院政を開始した白河上皇に関白就任を拒否された。その理由を、与えられた(ア)(イ)(ウ)の史料および天皇と藤原氏の系図(エ)から考え、摂関政治と院政における権力のよりどころの違いを答えよ、というのが本問の趣旨である。 摂政・関白という官職そのものは具体的な権限を伴わない。摂政も関白も、あくまでも天皇の個人的な輔弼者(ほひつしゃ、天皇の権能行使について進言する人)という位置づけだった。 道長が権力を握り得たのはなぜか? 道長が4人の娘を嫁がせて皇后とし、天皇との外戚関係を確固たるものとしたからである。 これを裏返せば、実頼・頼忠父子が「朝廷の人々から軽視された事情」もおのずと推理される。実頼・頼忠父子は、娘を皇后としていない、藤原氏では傍系である。それゆえ、<誰も自分には昇進人事について相談に来ない><自分は名前だけの関白にすぎない>と、嘆くしかなかったのである。 その後、藤原道長・頼通父子の時代には、摂関政治は全盛を極めた。しかし、11世紀後半の白河上皇の登場によって、摂関政治における権力関係は一変する。 藤原道長の子・頼通の娘には皇子が生まれなかったため、頼通を外祖父としない後三条天皇の即位を許すことになる。摂関政治の権力のよりどころは天皇との外戚関係であったがゆえに、それが切れた時に突然の終焉を迎えたのである。 そして、父・後三条の遺志を継いで親政を目指した白河は、1086年(応徳3)、子の堀河に皇位を譲り、自らは上皇として院政を開始した。そして、従来の太政官符を超える効力をもつとする院宣を発して、律令や先例にとらわれずに専制を行ったのである。 こうした中で、藤原公実が<摂関には自分のような立場の者がなるべき慣行がある>と訴えたが、聞き入れられることはなかった。白河は、「藤原氏が外戚の立場で官吏の任免権(人事権)を握る摂関政治」から、「上皇が天皇の父として実権を行使する院政」へと、権力関係を書き換えたからである。 あの受験生の答案が「低い評点しか与えられなかった」理由は、「摂関時代」と「院政時代」の語句の説明だけにとどまっており、「権力者はそれぞれ、どのような関係に頼って権力を維持していたか」という問いに対する答えになっていないからだ。 教わったことをただ暗記するという姿勢では、とうてい太刀打ちできない。「東大の日本史」は、知識のみで答案が書けないように設問で慎重にブロックしているのだ。 なお、この年度の第2問は、戦後歴史学の第一人者である網野善彦氏の文章を引用し、「中世に天皇が滅びることがなかったのはなぜか?」「鎌倉時代にのみすぐれた宗教家が輩出したのはなぜか?」という2つの問題について、「これらの疑問は高等学校で日本史を学んだ誰もがいだく疑問であろうし、日本の歴史学がいまだ完全な解答を見いだしていないものであると思われる」が、後者の問いに対して「歴史の流れを総合的に考え、自由な立場から各自の見解を述べよ」というものであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年02月21日 23時23分19秒
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