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2022年02月21日
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カテゴリ:尊徳先生の世界
『東大のディープな日本史2』

1984年度 奈良の大仏はどのようにして造られたか?

次の文章を読み、左記の設問に答えよ。
僧行基(ぎょうき)は、当時、寺院にこもって学問と修行につとめる僧が多かったなかで、国々をめぐって人々に教えを説き、人々の協力をえて、橋をかけ、灌漑施設をつくるなどの事業を行った。
このような行基の活動を支持し、行基の集団に加わる人々は、時には千人以上に達したという。
朝廷は最初、行基の活動を抑圧したが、聖武天皇時代になるとその態度を変え、731(天平3)年には、行基に従う人々に、年齢によって出家を認めるようになり、行基も743(天平15)年から天皇が始めた大事業には、弟子たちを従えて積極的に参加し、のちには仏教界最高の大僧正の地位にまでついた。
設問
A 行基の活動が最初朝廷に抑圧された理由は何か。
B 朝廷がのちに行基を重んじるようになった背景は何か。
当時の政治・社会情勢や、朝廷のそれに対する政策との関連に注目しながら、各自の考えをA・B各4行(120字)以内で述べよ。

Bの模範解答例(相澤理)は 
疫病や政争などで社会不安が高まる中、聖武天皇は鎮護国家の仏教に頼って国分寺建立や大仏造立を企画した。朝廷は事業の推進や墾田の開発に行基集団のもつ動員力・技術力を利用しようと考え、さらに戸籍支配から離脱した班田農民を再び取り込もうとした。

である。行基とはどんな人物か?

・行基は天智7年(668年)、河内国大鳥郡(のちの和泉国)に生まれ、天武10年(682年)に14歳で出家、元興寺で道昭らに法相宗を学んだ。父は百済系渡来人の高志才智、母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)である。飛鳥寺や薬師寺で教学を学んだ。
・行基は布教とともに貧しい人を助けるために布施屋と呼ばれる無料の宿泊所を作ったり、治水工事や架橋工事などの慈善事業を積極的に行った。これは師である道昭の教えに影響を受けたとされる。
・行基の活動を快く思っていなかった朝廷は「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた「僧尼令」に違反するとし弾圧する。しかし朝廷からの厳しい弾圧にもかかわらず、行基とその集団の活動規模が膨らんでくると、行基の指導により墾田開発や社会インフラが発展したこと、地方豪族や民衆たちを中心とした集団の拡大を抑えきれなかったこと、そして行基の活動が「反朝廷的」なものでないと判断するようになり、朝廷は弾圧を緩め行基上人の活動を認めるようになった。
・やがては聖武天皇から直々に依頼されて743年に大仏像造営の勧進(責任者)として起用される。行基は749年に大仏の完成を見ないで81歳で亡くなるが、朝廷より菩薩の諡号を授けられ「行基菩薩」ともいわれている。
「問題のリード文に「橋をかけ、灌漑施設をつくるなどの事業を行った」とあるが、現在でも全国各地に行基が開削したと伝えられる貯水池や温泉がある。
 朝廷にとって、行基の持つ土木技術力、そして「千人以上」の弟子を率いる動員力は魅力で、また浮浪・逃亡して戸籍支配から離脱した人々を再び掌握するチャンスでもあった。
 行基は大仏造立への協力に先立つ740年、恭仁京造営に労働力を提供する見返りとして得度が認められる。朝廷は禁止・弾圧するのではなく、国家事業に協力させ支配下に取り込む方針に転換した。
 こうした行基集団の動員はそのころ進められていた墾田の開発と関連づけて考えることもできる。
 大仏造立の詔が発せられた743年、墾田永年私財法により開墾が奨励される。それに先立つ723年、三世一身の法が出されると行基は畿内近国で開墾の指導にあたった。
実際は大仏造立に専念していたが、朝廷はそこまで意図していたと考えられる。」と『東大のディープな日本史2』62ページにある。

・原始キリスト教がローマに弾圧されながら、民衆の間に広まり、ついにローマがキリスト教をとりこみ、逆にキリスト教国家となるのとアナロジーを感じさせる。

・また二宮尊徳が幕府に招請され、最後に日光再開発を命ぜられるようになった経緯や遠州地方で行政が報徳運動を支援普及したこと、日露戦争後、国が報徳思想を全国に積極的に広めようとしたこととアナロジーがあるように思う。
 二宮尊徳は小田原藩主大久保忠真候の依頼で10年契約で栃木の桜町領の開発に従事する。当初順調に進むように見えた事業は領民の非協力や小田原藩士の妨害などで危機に陥るが、成田山に籠っての祈願を経て、全面的な協力が得られるようになる。
このときに力となったのが不二孝(富士山信仰)連中であった。また数学的な素養のある武士や開田を専門とする技術者、青木村の堰の改修などで参集した大工等の集団が集積するようになり、無利息貸付の累積による資金の充実とあいまって、尊徳の率いる技術的集団は幕府が注目するところとなり、水野忠邦は天保13年下野桜町にいた二宮尊徳を御普請役格に任命して利根川の分水路の計画をたてさせている。尊徳は命に従い、富田高慶など弟子を引き連れて江戸へと向かう。
・二宮尊徳は、天保13年(1842)10月2日御普請役格として勘定奉行の配下となった。そして早速命ぜられたのは利根川分水路見分目論見御用であった。尊徳の幕府登用は、青木村などで評判になった水利に対する土木手腕が買われて、印旛沼から江戸湾へ新堀を開くためだった。この利根川分水工事はこれまでも何回か着手されたが、いずれも失敗した難工事で、尊徳は10月21日から11月15日まで現地を踏査し、「沿村の人の和を得なければ工事は成功しない。それには先ず報徳仕法によって周辺の村々を復興させねばならない。堀の開削はその後である」という20年も要する遠大な計画を報告した。工事の急をあせる幕府には、このような長期的計画は採用できなかった。
・天保14年7月になると、御勘定所附御料所陣屋附手附(弘化4年5月からは山内総左衛門手附)となり、9月22日真岡の陣屋に赴任した。尊徳は赴任前、江戸で山内と話し合っており、赴任後もしばしば山内を訪ねてはいるけれども、山内の理解を得て御料所内に仕法を発業する運びには至らなかった。すると弘化元年(1844)4月、江戸に呼び出され、日光神領荒地開拓調査見込の上申を仰せ渡された。尊徳はこれこそ自分畢世の事業と力を尽くし、3年の歳月をかけ、方法書80余巻を草して提出したが、幕府からは何の下命もない。彼を起用した水野越前守忠邦は既に幕閣を去っていた。ようやく山内代官との話し合いで、東郷村と桑野川村の荒地を開発したものの、それがかえって陣屋下役の反対を呼び起こし、代官を仕法から遠ざける結果となった。これまで手がけて来た私領の仕法まで悉く閉塞したわけではないが、せっかく幕府に召し出されながら御料所内で何ら為すところなく「屈身」していることは残念極まることで、「道もまたここに止れり」(報徳記8)と慨嘆した。
・嘉永5(1852)年6月23日、尊徳は「荒地起返し、米麦を取増し、雛形旧復の仕法は、御国の益の根元としての取行い方を願い上げ奉り」と、願書を出す。一畝、一歩ずつでも起返し、一家、一村でも取り直せば、その余徳をもって起返しは前後左右に拡大し、貧者一同が助かり、永久万代までも莫大の御仁恵として幕府が賞揚されるであろう、と記す。その後に尊徳が必死に書き綴ったことは「今まで繰り返して仕法の実施を嘆願してきたが、当年66歳となり余命いくばくかははかり知れず」と、至急存命中に実施できるように訴えている。真岡代官山内総左衛門はこの願書に付箋をつけ、尊徳が真岡の手付であっては日光仕法の取扱いはできがたいから、日光奉行所への転属を特別に計らっていただきたいと、好意的な意見を添える。
 それから8か月、一日千秋の思いで待っていた許可の下命が、ようやく翌嘉永6(1853)年2月13日、勘定奉行松平河内守近直から申し渡された。「見込通り、御料・私領手広く取計らうよう致すべく候」と、従来手がけた諸仕法も認められている。追いかけて2月26日に、日光奉行所手付を命ぜられた。この日を待望すること久しかっただけに、尊徳の生涯中最大の喜びに満ち、その後死去する70歳まで、わずか3年間であったが、日光仕法に全力をふりしぼって余命をささげたのである。
・明治時代後半に、内務省は中央報徳会と連携して「斯民」などを通して、日露戦争後の荒れた人心の改良のため、一時報徳運動を鼓吹した。全国各地の二宮金次郎像もその時の運動として盛んに建立され、その後も国民の理想像として建立された。
 二宮尊徳の方法は「荒地は荒地の力をもって開く」という荒地開拓法と無利息貸付法の二つの仕法原理による。
 これらは無限循環の性格を持ち、天地の理法を象った手法であるがため、地球上で人類が生存する限り有効であると主張した。
二宮尊徳「この宇宙が崩れるまで、水が水平であり、糸に錘をつけてまっすぐ下がっている間は私の立てた法は有効である」





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最終更新日  2022年02月21日 23時32分12秒
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