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カテゴリ:鈴木藤三郎
機械修理工場を併設、人材を育成。
「藤三郎は北海道から東京へ帰ると、すぐ主要な部分に自分の考案を加えた設計をし、建築に着手し、くふうした機械もすえつけ、6月に試験的な精製糖工場を建設した。それから実験に従事して、ついに多年願望の純白な精製糖を造ることができた。 藤三郎は考えた。 化学的変化では、改良の余地がないまでに研究し尽した。歩留まりが悪く、結果が思わしくないのは、機械に欠点があるに違いない。機械の改良をやることにしよう。(略) 今まで通り、全く他に任せるなら、無限の資力がある訳ではないから、途中で研究中止の境遇に陥らないとも限らない。この危険を防止する最良の策は、機械の製作を自分の手ですることだ。これからの工業は機械力にまつこと絶大だ。将来のためにも、これは必要であると考えた。 藤三郎は、そこで、ランキンの機械学の翻訳本を手に入れて、それを座右において独学し、また工学専門の学者を訪ねて教えをこい、しばらくそれに全力を傾注した。そして、半年経たないうちに、鉄工業に関するひと通りの知識を修めたので、明治24年(1891)早々から、宅地の一隅に小鉄工所を設けて、最初は5人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。これが鈴木鉄工部の起こりである。この鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。 この鉄工部ができてからは、新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになったので、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をした。そして、明治24年(1891)4月ごろには、自分でも満足するような砂糖精製機械を完成することができた。その製品も市場の好評をはくし、藤三郎の年来の希望は、ようやく達せられた。 鈴木鉄工部は明治24年(1891)に、わずか3千円の資本で創立された当時は、3間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と2馬力のエンジンを備えたばかりでした。 藤三郎は約20年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地3千5百坪、従業員4百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。」 「鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。この2つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。 「若い技師長さん」の私は、年配者にまじって一生懸命だった。 だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。 報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。 いいかえれば、「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。 その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。 だから朝から晩まで働かなければならないのだ」 という論旨から成り立っている。 私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。 その精神は、鈴木さんの薫陶を受けた私の処世訓ともなっている。 はっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を実践し、がんばってきたということだった。」(「熱と誠」荏原製作所創業者畠山一清) 2009年12月25日付の利先生のメールでは鈴木藤三郎が工場敷地を決めたことや、社長が直接、現場で直接機械の操作を教え、機械の修理をしたことを指摘されています。 藤三郎は鈴木鉄工部の精神、自ら修理し工夫改善によって性能を向上させるという人材教育を台湾製糖にもそのまま移植したのです。 「普通トップの座にいる社長は、現場などで直接仕事の操作をしたり工員に教えることは滅多にありません。 世界ひろしとはいえどもただ鈴木藤三郎一人だと思います。 この橋仔頭の工場の敷地も彼が決めたのです。 工場を建てるにはまず水源がなければなりません、そして人里を少し離れなくてはなりません。 彼はすべてを計算に入れていました。 彼は機械の操作を現場の人に教えながら工場の機械をなおしていきました。 支配人の山本は農業の方なので、工場は全然白紙でした。 私は戦後になってから製糖所に入社しました。 台湾にある製糖所36箇所全体を見て回りましたので、多くの大型機械を見ました。 そのため橋仔頭第一工場の機械つまり藤三郎が選んだ(設計した)機械はみな玩具のように見えましたが、この素晴らしい機械は、その後湾裡製糖所に移され長年使用されてきました。 利純英」 遠州の報徳運動の特色の一つは、安居院庄七が報徳と共に伝えた関西の先進的な農業技術(定規植え等)にあります。 遠州の報徳社では報徳の研究とともに農業技術の改善普及を行いました。 それは農作物の収量の増加に繋がっていて、報徳人は熱心に学びました。 おそらくそうした中から発明者や生産技術を常に工夫改善してやまないという人間が育っていったのではないでしょうか。 それが現代でもトヨタのカイゼンやホンダの技術重視といった社風に繋がっているようにも思われるのです。 藤三郎も発明や工夫改善をしてやまない遠州の報徳運動から生まれたのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年06月08日 18時20分02秒
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