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カテゴリ:鎌倉殿の13人
<英雄たちの選択>「鎌倉殿の13人」にも登場 曽我兄弟敵討ち事件 美談に隠された深層に迫る
6/8(水) 「鎌倉殿の13人」で成人した曾我十郎、五郎の兄弟が登場する。特に十郎は精悍な顔立ちをしている。 ドラマでは、北条時政が五郎の烏帽子親になっているということで、鎌倉殿に御家人に取り立ててもらいにいく。そしてその結末はドラマではでず、父親の河津三郎を最近頼朝にとりいって取り立てられている工藤祐経の敵討ちと、さらには驚きべきことに頼朝暗殺計画が謀議される。 しかも頼朝暗殺計画は時政は知らず、比企能員は知ってどっちに転んでも自分たちに利があるとほくそ笑むストーリー。 ・曽我十郎と五郎は伊東祐親の孫。かつて、工藤祐経に祐親と間違って父・河津祐泰を殺された恨みがあった。義時の父・時政は五郎が元服した際の烏帽子親(義理の親ともいえる結びつきがある)であり、父の仇を討とうとする兄弟を擁護。しかし、兄弟にはさらなる目的があり、北条は知らぬ間に危機に立たされることとなる。 実際の曾我事件とはどのようなものだったのか? <英雄たちの選択>曽我兄弟敵討ち事件 ・舞台となったのは、頼朝が我が子・頼家を後継者として御家人たちに認めさせるべく行った富士野の巻狩り。そして、戦争の時代が終わり平時に向かう中で、鎌倉殿(頼朝)と御家人の関係も曲がり角にあった。 *曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち)は、建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を富士野にて討った事件。 曽我兄弟の仇討ちは、駿河国富士野(現在の静岡県富士宮市、『吾妻鏡』は更に子細に富士野神野と記す)で発生した。兄の曽我十郎祐成(一万)が22歳、弟の曽我五郎時致(箱(筥)王)が20歳の時のことであった。 真名本『曽我物語』によると、仇討ちの発端は安元2年(1176年)10月に兄弟の父である河津祐泰が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の郎従に暗殺されたことによる。祐泰が31歳、一万が5歳、箱王が3歳の時のことであった。工藤祐経は「心を懸けて一矢射てむや(真名本『巻第一』)」と伊東荘を中心とする所領相論の相手であり妻(万劫)を離縁させた人物でもある伊東祐親の暗殺を郎従に命じていたが、実際は矢は祐親ではなく祐泰に命中し非業の死を遂げた。その敵にあたる工藤を曽我兄弟が討った事件である(兄弟の母が曽我祐信と再婚したため兄弟は曽我姓を名乗る)。 『吾妻鏡』によると、源頼朝は建久4年(1193年)5月15日に富士野の御旅館に入り、同16日には富士野で狩りを催している。 事件は同28日に起きた。『吾妻鑑』28日条には「曽我十郎祐成・同五郎時致、富士野の神野の御旅館に推參致し工藤左衛門尉祐経を殺戮す」とあり、曽我兄弟は富士野の神野の御旅館におしかけて工藤祐経を討った。このとき酒の相手をしていた王藤内も討たれた[18]。 傍に居た手越宿と黄瀬川宿の遊女は悲鳴を上げ、この一大事に現場は大混乱となり、宿侍が走り出す。曾我兄弟と頼朝の御家人の間で戦闘が始まり、平子有長・愛甲季隆・吉川友兼・加藤光員・海野幸氏・岡辺弥三郎・岡部清益・堀藤太・臼杵八郎といった武将らは傷を負った。また宇田五郎も兄弟に討たれ、十郎(兄、祐成)は新田四郎忠常と対峙した際に討たれた。 五郎は将軍頼朝を目掛けて走り、頼朝はこれを迎え討とうと刀を取ったが、大友能直がこれを押し留めた。この間に時致は御所五郎丸に取り押さえられ、大見小平次が預かることで事態が落ち着くこととなった。その後、和田義盛と梶原景時が検死を行った。 仇討ちの翌日である29日に頼朝は五郎(弟)の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えた頼朝は五郎の勇姿から宥免を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。 *鎌倉殿この由を聞き食されて、「これ聞き候へや、各々。哀れ(あっぱれ)男子の手本や。これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず。(中略)助けばや」 *梶原これを承て(中略)「彼ら成人仕り候ひなば、自今以後も狼藉出来し候ひなん(中略)」と申されければ、さてこそ五郎時宗は切られべきに定まりけれ 30日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた。6月1日には祐成の妾の虎を始めとする多くの人物に対して聴取が行われた。6月7日に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた。 *鎌倉殿は富士野を出で御在して…(中略)鎌倉殿打低樋かせ給ひつつ、「母の悲しみこそあるらめ。自今以後曾我の荘の年貢弁済においては、二人の者共が供養のために母に取らするなり(中略)公役御免の御教書を賜りて、曾我の里とぞ返りける **事件に関する解釈 北条時政黒幕説・・・歴史学者の三浦周行が大正期に北条時政黒幕説を唱えた。工藤祐経を討った後に五郎は源頼朝をも襲っており、これが時政の暗躍によるものとする解釈である。 一方で、頼朝と時政は頼家の擁立で利害が一致しており、時政に頼朝を襲うほどの動機はないし、事件後も頼朝と時政の間に懸隔は見られない。頼家の晴れの舞台で時政が殺人を仕組むとは考え難く、また祐成を討ったのは時政の側近の仁田忠常であり時政黒幕説を疑問視する見方もある。 伊東父子襲撃における源頼朝関与説 歴史学者の保立道久は伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に頼朝の長男・千鶴丸を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親父子襲撃そのものに息子を殺された頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経による伊東父子襲撃の背後に頼朝がいたことを知っていたとしている。この説では、曾我兄弟は初めから頼朝を父を殺害した仇として認識していたことになる。 事件後 富士の巻狩りの後粛清が相次いでおり、巻狩りが契機となった可能性が指摘されている。 巻狩りには源頼朝の異母弟である源範頼が参加しておらず、後の流罪に関係する。 この事件の際に常陸国の者が頼朝を守らずに逃げ出した問題や、事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが『吾妻鏡』に記されており、同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする。 💛「鎌倉殿の13人」は、三谷さんの「予測不能のエンターテイメント」を視聴者が伏線から展開を予測するという知恵比べ的なところがある。ちょっとした脳トレーニングでもある。 6月5日(日)の回で、伏線と思われるもののいくつかは 義時の子、金剛が情け深く、思慮深い資質を示す→北条の執権を盤石にする 比奈が辛辣に義時を評する→義時の正妻として朝時、重時を生み、二人の兄弟は共に承久の変を義時、泰時とともに乗り越え、時に重時は泰時の片腕として活躍する。 ・もっとも注目すべきは、善児が曽我十郎祐成22歳と五郎時致20歳の工藤左衛門尉祐経かたき討ちさらには源頼朝暗殺計画をひそかに聞き、梶原景時に伝える。 梶原はひそかに義時を招き、この計画を伝える という展開である。 富士の巻き狩りの責任者は義時の父、時政である。そして曾我兄弟のかたき討ちに賛成する。(頼朝暗殺計画は知らない) かたき討ちと頼朝暗殺が成功しても失敗しても、その責任は時政が負うことになる。 そして頼朝が時政を誅殺することは確実である。 おしらくそれを防止するためには、少なくとも頼朝暗殺を阻止し、さらに曾我兄弟を生かしていかない(生きていれば時政に不利な供述をする可能性がある) さらに背後で裏をひく人物をでっちあげて頼朝の疑いを時政からそらす必要がある。 そこで政子と義時は父を守るために、手を組んで、罪を源範頼になすりつける。 義時は時政の配下の者に、曾我兄弟をうたせるようにし、五郎を赦免するようにとの頼朝に対し、梶原から死罪にふすべきだと諫言してもらい、 政子は、範頼が「私がいるから鎌倉殿に何があっても大丈夫」と言っていましたと頼朝に告げて、範頼への疑いを燃え上がらせる。 そしてこれらの一連の事態がのちに頼朝死後に、次の鎌倉殿をめぐって、関東武士団をまきこむ壮大な内輪もめへとつながっていく。 その後の歴史と照らし合わせると、善児と梶原景時の動きをそう読み解くが、いかがあいなるであろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年06月10日 00時41分25秒
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