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カテゴリ:鈴木藤三郎
鈴木藤三郎が創設した日本精製糖株式会社や鈴木鉄工所は、また日本の食品製造や機械工業の人材養成の場でもあった。
特に有名なのは、株式会社荏原製作所の創業者 畠山一清氏である。 株式会社荏原製作所 荏原創業者 畠山一清に 「畠山は1906年に機械工学科をトップで卒業。帝大の銀時計なら三井・三菱でも引く手あまただが、あえて鈴木鉄工所に入社する。経営者の鈴木藤三郎は氷砂糖の事業化で成功後、早造り醤油の事業に着手しており、その醸造工場を作る技師長に初任給50円(現在の50万円以上)と高給で迎えられたが、輸出用の樽が洋上で次々と爆発し、これが内紛に発展して、1910年に倒産してしまう。」とある。 その経緯は「熱と誠」に詳しい。 月島機械を創業した黒板伝作氏もまた鈴木鉄工所の出身である。 鈴木鉄工所から流れ出た人材の流れは、思ったより深く、藤三郎の報徳の精神とともに日本の工業界の底流に流れ込んでいるかもしれない。 2006年03月01日月島今昔人ものがたり(6) 「わが町内に月島工業の先駆者あり」(1) 「月島機械の黒板伝作社長」 月島の築島は明治も中頃に行われた。隅田川河口における近代的港湾施設の建設決定が遅れ、洪水対策としての隅田川浚渫事業が行われた。その浚渫土砂を持って築島が、港湾建設決定より一歩先じて実行された。それが月島の誕生である。 その月島の目的外ともいえる築島の結果は、近代工業の月島へと進行してゆくのである。 進むべき道が定まった近代工業の町月島は、石川島造船所(現在の石川島播磨重工)を中心として、フロンティア精神の漲る人々が全国から集まって来た。そうした人々の中でも月島における立身出世の鑑として、月島の人々から尊ばれた人が、多く輩出した。 その出世した先輩達の中でも、代表的な人のうち三人の方が、わが月島四之部町会(現在は西地区と東地区に分かれる)の町内にいた。 すなわち月島機械株式会社の黒板伝作社長、株式会社石井鉄工所の石井太吉社長、株式会社安藤鉄工所の安藤儀三社長である。 月島機械株式会社初代社長の黒板伝作氏は、明治9年(1876)に長崎県で生まれ、私立大村尋常中学校を卒業、熊本第五高等学校を修了し、明治33年(1900)7月東京帝大工科大学機械科を24歳で卒業した。 しかも、五高入学前に小学校教員を経験したり、東京帝大に入学した後も学費を補うために鈴木鉄工部でアルバイトをするなど、苦学力行をしたといわれる。 黒板氏の父親は警察官出身の村長ではあったが資産家ではなく、子息への学資の負担は十分に行えなかったといわれる。 東京帝大を卒業した人たちは、明治時代には日本を背負うという自負を持ち、周囲の人たちの期待を強く感じていた筈といわれ、本来国家を背負うためには官吏の道が早い筈である。 しかし当時は官吏としての技術者は冷遇されていたため、野心あるものは、民間から引く手あまたの技術者として、民間の工業界に飛び込んでいった。黒板伝作氏もそうしたなかの一人であったそうだ。 その黒板氏が乞われて選んだのは鈴木鉄工部であったが、その前に日本精製糖からの入社要請を承諾し、200円の前借をしていたといわれる。当時の労働者の平均年収は198円余であり、帝大出の工学士はかなり優遇されていた。 そうした状況で黒板氏は日本精製糖に入社をせず、その弟会社の機械メーカー鈴木鉄工部に入社した。 それは製糖会社で機械の番をしているよりは、鉄工部で機械を作るほうが面白かったと、御自身が述べている。黒板氏の志向のあり方、考え方がよく解かるといわれている。 その黒板氏は入社した鉄工部に5年近く関係しただけで、独立への道を歩み出した。 明治38年(1904)年東京月島機械製作所を創業し、黒板氏の工業活動が本格化した。の工場が異色の存在として注目されたのは、黒板氏の学者的性格と、経営上の採算をときには度外視するという、技術者としての研究熱心さからだといわれている。 その上、人を育てることへの努力傾注が、工場全体を職人気質で埋めず、欧風の学問に触れる機会を徒弟たちに与え、職人工場にとどまらない近代工場へと、自力で歩みはじめた。それが独力で近代的技能教育を志した点として、月島機械の特色であったという。 月島機械に給仕として入社し、独立して黒板氏とは盟友的存在といえる、安藤鉄工所社長の安藤儀三氏は、在社当時を次のように語っている。 「事務所に隣接して黒板社長の私宅があって私宅には書生が4・5人いた。先生は34、5歳で工場を経営し、工場では小学出の徒弟等25・6名を養成しつ々、設計には大学、商工、工手学校の出身者を置き、夜学校に通学する者も数名居るという、前途洋々たる、宏壮の状態であった。その受注先も官庁の他に鉱山、化学、土建、発電会社、鉄道方面等多方面であった。青年には勉強の余暇を与える等の温情溢れるものがあった。人望も厚い人で、この社長の下で日夜働くことが、どれだけ良かったかわからない。」と語る。 また、「俺は人間を育ててやる、だから直ぐには駄目だが末には伸す積もりだ。」とも安藤氏は黒板氏を語っている。それを実証するのは、徒弟養成所(後の技能者養成所)であるといっている。 日本の近代大工場が、工場の設備や技術・技能体系、その管理体系を外から移植したり、国家的バックアップを受けて育って来たが、中小工場では、熟練職工を大工場から引き抜くとか、大工場に移植された技術や技能を模倣し、職人が自力で技術や技能を習得し、練り上げるほかなかったという。 その点月島機械のように、徒弟養成所により工場を組織化する政策を設けたことは、新しい考へ方と旧い考へ方の闘争を持ちながら、小学校卒の徒弟たちに、彼らが受けられなかった教育を補完したいという。 また新しい時代をひらき、創造的な人間になるためには堂々たる勉強が必要だと言い、黒板氏は自らもそう努めながら、人々にもその場と機会を用意したのだと言われている。 その努力が月島機械の基礎を築き、現在の月島機械を作り上げたと言われ、月島の誇りとなっているのだと語られている。 月島の近代工業の一っ月島機械は、他の工場が環境公害の関係で、区外に転出してしまったなか、本社機能を残し現在も健在に営業を続けている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年06月11日 03時37分54秒
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