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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
2022年6月14日
報徳記を読む 現代語訳 第二集 報徳記巻の2 【七】先生辻門井二邑の里正を教諭す その6 故に 忠臣良民は君の艱難に当りては、身命を抛ち其の憂を除き、祖先歴代の高恩に報いんとす。力足らざれば死して后止む。米粟家財何ぞ言ふに足らん。今君恵憐の心薄く多欲にして貪るといへども、其の采邑に求むるのみ、故に采邑の物を取尽すに及びては、其の求め必ず止まん事薪尽て火の滅するが如し。汝等時運を知らず、又祖先以来受くる所の大恩を顧みて之を報ぜんとするの心なく、薪を抱きて火に向ひ、火の滅するを求めるが如し。早く抱く所の薪を火中に投ぜば、薪尽て火燃る所なく、君の求め止まん事何の疑ひかあらん。是の故に家財田圃一物をも残さず、君に奉じて其の不足を補ふべし。然れども君の所行を怨むるの心ありて之を出す時は、是誠心の行に非ず。 令和4年5月8日現在 「報徳記を読む」第二集ー報徳は精神改革であるー 全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年11月28日発行) 国立国会図書館 都道府県立図書館 北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、鹿児島県 鹿児島県奄美、沖縄県 市区町村立図書館 図書館 (北海道)17館 札幌市、江別市、富良野市、北斗市、帯広市、北広島市、恵庭市、北見市、釧路市、根室市、比布町、様似町、京極町、美幌町、八雲町、別海町、佐呂間町、 (青森県)4館 青森市、八戸市、十和田市、五戸市 (岩手県)8館 盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、久慈市、金ヶ崎町、 (宮城県)3館 石巻市、名取市、加美町 (福島県)9館 郡山市、相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、南会津町、三春町、新地町 (栃木県)6館 足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市、 (茨城県)4館 ひたちなか市、筑西市、常総市、八千代町 (群馬県)2館 館林市、渋川市 (埼玉県)1館 所沢市 (千葉県)2館 市原市、流山市 (神奈川県)14館 横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口図書館、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、二宮町 (新潟県)3館 五泉市、新発田市、南魚沼市 (長野県)1館 白馬村 (静岡県)11館 静岡市、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、菊川市、焼津市、森町 (富山県)3館 富山市、滑川市、黒部市 (石川県)3館 金沢市、加賀市、羽咋市 (福井県)1館 あわら市 (愛知県)3館 名古屋市、岡崎市、新城市 (京都府)1館 南丹市立図書館 (大阪府)1館 大阪市 (兵庫県)3館 姫路市、三田市、赤穂市 (島根県)1館 松江市 (山口県)1館 防府市 (香川県)2館 善通寺市、観音寺市 (高知県)3館 土佐市、南国市、いの町 (愛媛県)2館 西条市、今治市 (大分県)1館 臼杵市 (熊本県)3館 上天草市、水俣市、人吉市 (宮崎県)4館 宮崎市、都城市、小林市、日南市 (鹿児島県)6館 薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町 (沖縄県)1館 北谷町 💛「報徳記」の原文(全フリガナ付き)を輪読してみませんか? 第2集、第3集は絶版ですが、第1集は手持ちが少しありますので、読書会等で「報徳記」の原文を輪読されたい読書会等がありましたら、上記の公共図書館に寄贈し蔵書となっている本(「報徳記を読む」第1集)の奥付に連絡先のメールアドレスが載っていますので、ご連絡ください 💛鈴木鉄工部の起こり 「藤三郎は北海道から東京へ帰ると、すぐ主要な部分に自分の考案を加えた設計をし、建築に着手し、くふうした機械もすえつけ、6月に試験的な精製糖工場を建設した。それから実験に従事して、ついに多年願望の純白な精製糖を造ることができた。 純白な精製糖は得られるようになったが、歩留まりが悪くて、製品の数量が少ない。実験としてはよいが、事業としては収支が償わない。新たな工夫を凝らしてみるが、満足するような結果は得られなかった。 藤三郎は考えた。 化学的変化では、改良の余地がないまでに研究し尽した。歩留まりが悪く、結果が思わしくないのは、機械に欠点があるに違いない。機械の改良をやることにしよう。(略) 今まで通り、全く他に任せるなら、無限の資力がある訳ではないから、途中で研究中止の境遇に陥らないとも限らない。この危険を防止する最良の策は、機械の製作を自分の手ですることだ。これからの工業は機械力にまつこと絶大だ。将来のためにも、これは必要であると考えた。 藤三郎は、そこで、ランキンの機械学の翻訳本を手に入れて、それを座右において独学し、また工学専門の学者を訪ねて教えをこい、しばらくそれに全力を傾注した。そして、半年経たないうちに、鉄工業に関するひと通りの知識を修めたので、明治24年(1891)早々から、宅地の一隅に小鉄工所を設けて、最初は5人の職工を使って、自分が技師となって、機械の製作を始めた。これが鈴木鉄工部の起こりである。この鈴木鉄工部を経済的に維持するために、金庫や精穀機を製作して売り出したりもした。 この鉄工部ができてからは、新たにくふうした機械の製作も自由にやれるようになったので、藤三郎の研究は一段と飛躍的な進歩をした。そして、明治24年(1891)4月ごろには、自分でも満足するような砂糖精製機械を完成することができた。その製品も市場の好評をはくし、藤三郎の年来の希望は、ようやく達せられた。 鈴木鉄工部は明治24年(1891)に、わずか3千円の資本で創立された当時は、3間に長屋風の建物に、機械としては、鍛冶道具に小形な旋盤と2馬力のエンジンを備えたばかりでした。 藤三郎は約20年、配当を取らず、利益があればこれを事業に投じたので、年々発展して、敷地3千5百坪、従業員4百人を抱えた、東京でも屈指の大鉄工所になった。藤三郎はこの鉄工部に鈴木発明部を設けた。」 「鈴木鉄工所には2つの部門があった。一つは鈴木発明部といい、文字どおり発明に関する仕事をやるわけだが、主な仕事は設計をすることだった。もう一つが鈴木工作部で、これは機械をつくる部門で、発明部が設計したものを、ここで機械にするわけだ。この2つの部門を総称して「鈴木鉄工所」と呼んでいたが、社長鈴木藤三郎さんは、無類の発明家であり、当時の実業界でも、異色の大人物だった。 初任給は50円くらいだった。いきなり技師長の肩書きをもらって入社したのだから、異例の待遇だったといえよう。 「若い技師長さん」の私は、年配者にまじって一生懸命だった。 私は鈴木社長のもとで、足かけ5年、エンジニアとして勉強させてもらい、大きな設計や仕事をやらせてもらった。 だが、それにもまして私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。 報徳精神とは、二宮尊徳の報徳の教えより出ているもので、一口にいうと「人間は朝から晩まで働き、生まれて死ぬまで働きつくすものなり」というのが根本精神になっている。 いいかえれば、「社会は年とともに発展、向上していかなければならない。そのためには、われわれが、後世に蓄積を残さなければならない。われわれがこの世の中に生活していくためには、みずからたいへんな消費をする。 その消費を償って、なおかつプラスのものを、後世に残していかなければならない。 だから朝から晩まで働かなければならないのだ」 という論旨から成り立っている。 私に大きな影響を与えたのは、氏の信奉する報徳精神だった。 その精神は、鈴木さんの薫陶を受けた私の処世訓ともなっている。 はっきりいえることは、鈴木社長に教えられた『人のために働く』という報徳精神を実践し、がんばってきたということだった。」(「熱と誠」荏原製作所創業者畠山一清) 2009年12月25日付の利先生のメールでは鈴木藤三郎が工場敷地を決めたことや、社長が直接、現場で直接機械の操作を教え、機械の修理をしたことを指摘されています。 藤三郎は鈴木鉄工部の精神、自ら修理し工夫改善によって性能を向上させるという人材教育を台湾製糖にもそのまま移植したのです。 「普通トップの座にいる社長は、現場などで直接仕事の操作をしたり工員に教えることは滅多にありません。 世界ひろしとはいえどもただ鈴木藤三郎一人だと思います。 この橋仔頭の工場の敷地も彼が決めたのです。 工場を建てるにはまず水源がなければなりません、そして人里を少し離れなくてはなりません。 彼はすべてを計算に入れていました。 彼は機械の操作を現場の人に教えながら工場の機械をなおしていきました。 支配人の山本は農業の方なので、工場は全然白紙でした。 私は戦後になってから製糖所に入社しました。 台湾にある製糖所36箇所全体を見て回りましたので、多くの大型機械を見ました。 そのため橋仔頭第一工場の機械つまり藤三郎が選んだ(設計した)機械はみな玩具のように見えましたが、この素晴らしい機械は、その後湾裡製糖所に移され長年使用されてきました。 利純英」 遠州の報徳運動の特色の一つは、安居院庄七が報徳と共に伝えた関西の先進的な農業技術(定規植え等)にあります。 遠州の報徳社では報徳の研究とともに農業技術の改善普及を行いました。 それは農作物の収量の増加に繋がっていて、報徳人は熱心に学びました。 おそらくそうした中から発明者や生産技術を常に工夫改善してやまないという人間が育っていったのではないでしょうか。 それが現代でもトヨタのカイゼンやホンダの技術重視といった社風に繋がっているようにも思われるのです。 藤三郎も発明や工夫改善をしてやまない遠州の報徳運動から生まれたのです。
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最終更新日
2022年06月14日 06時00分12秒
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