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2022年06月22日
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「片瀬だより」第150号に「鎌倉時代、江ノ島に登場する人々の足跡を辿る」(堀 浩侃著)が載っている。
編集後記には「鎌倉時代と江ノ島にまつわるお話の連載が始まりました」とある。
写真の説明はありません。
読んでみると、「鎌倉殿の十三人」の登場人物のしらなかったプチ史実が満載で面白い。

・「吾妻鏡」によれば、養和2年(1182)4月、源頼朝を筆頭に江の島の岩屋に参詣し、京都高尾神護寺の文覚上人を招いて、奥州藤原秀衡討伐の戦勝祈願を行い、岩屋本殿に宇賀弁才を勧請し、鳥居を寄進している。この時、頼朝、文覚上人、北条殿(時政)、足立右馬允(遠元)、和田小太郎(義盛)とその側近の佐々木定綱、佐々木盛綱が登場している。

💛大河では頼朝が文覚上人を呼び寄せて藤原秀衡の調伏を行う場面があるが、史実に基づいているのだ(^^)
源頼朝「現実逃避の女性通い」の背景にあった奥州の秀衡、西の平家、そして、木曽義仲という関東緊迫情勢【鎌倉殿の13人 満喫リポート】(サライ.jp) -  Yahoo!ニュース


足立右馬允(遠元)*って、ピンとこないのだが・・・
足立遠元 | 芳村直樹のブログ

なるほど、頼朝が今日から呼び寄せて政子らに京都の作法を教授した人。


実衣ちゃんに「最も得体が知れない」とか、
剣技について「案外できる」とか評される人。

実衣ちゃんの発する言葉や問いは、本質をついて時に人を凍り付かせる。
『八重さんと言えば...爺様は何であんな事になってしまわれたの?』
『北条の家は、誰が継ぐんですか?』
『私が何か言ったら、静まり返る決まりでもあるんですか?』


*足立氏は武蔵国足立郡を本拠地とした在地豪族
遠元の父・藤原遠兼が土着し、遠元から足立氏を名乗った。
(現在の東京都足立区から埼玉県北足立郡に跨る地域、遠元の父・藤原遠兼(ふじわらのとおかね)がこの地域に住み、この遠兼の代から「足立」の地名をそのまま姓にした。つまり現在の足立区もこの地名に由来するということか)
平治の乱(1159)では、源義朝(頼朝の父)に従い、右馬允(うまのじょう)に任官し
源義平(頼朝の長兄)率いる17騎の一人として戦った。
治承4年(1180)8月挙兵した頼朝から前もって命を受けて
10月2日には迎えに出向き、10月8日に足立郡を本領安堵される。

遠元は、鎌倉幕府の公文所(公文書の管理などを行う役所・後の政所)にも寄人(役人)として登用され、合戦の功に対して右馬允という官位を与えられた。頼家が2代将軍になった際の「13人の合議制」の1人にも選ばれている。

遠元は、御家人であり関東武士団の1人ながら、武家社会ばかりでなく、公家などの社会にも深い繋がり・人脈を持っていた。
遠元は、行政事務の取扱にも手慣れた対応ができる文官的な資質をも有していた。
なお、遠元については『吾妻鏡』によれば、承元元年(1207)3月3日の「闘鶏会参加」の記事に出席したことが最後に、こうした資料から姿を消す。恐らく70歳代の高齢になっていたと思われるので、この前後に死没したと見られている。

つまり大江広元と同様に、次々と政敵から消されていくなかを生き延びる稀有な人の一人であったのである。





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最終更新日  2022年06月22日 17時57分59秒



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