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カテゴリ:鈴木藤三郎
「日本醤油醸造会社の出現と解散に思う」
茂木正利に日本醤油醸造会社に勤務した堀場秀雄氏(*)の話が載っている。 堀場氏は明治16年生まれで、昭和48年1月30日に茂木氏と舘野正淳氏が堀場氏宅で、日本醤油醸造株式会社創立当時のことを聞いた。 堀場氏は東京、蔵前の東京高工を卒業してから3ヶ月、滝野川の醸造試験所に勤めた。 明治40年に日本醤油醸造会社に入社し、明治44年に会社が換算するまで勤務した。 栂野明二郎氏は3年ほどたってから入社したが、彼は頭を使う仕事で、直接は工場に出なかった。堀場氏は工員と一緒になって、仕事に没頭した。大豆を煮たり、小麦を煎ったり、更に製麹、仕込、圧搾、火入までやった。この会社には、醤油造りを知っている人が、社長を始め従業員の中に1人もいなかった。それ故、堀場氏はすべての作業で非常に苦労した。例えば大豆を煮るのに、蒸煮缶に直接蒸気を通すと、蒸気の通路が出来て、大豆の半分は生煮えになるので、大豆を半煮えにしてから、蒸気を通すと、今度は上手に煮えた。麹を造るには円とう形のタンクを使用し、中に麹蓋を上手に吊し、麹蓋から原料がこぼれないように苦心したが中々うまくいかなかった。諸味は横型のタンクに入れ、外から温めて熟成させたが、よく発酵しないので、高橋偵造先生を時々尋ねて、醤油酵母を分けて頂いた。熟成した諸味はタンクに入れて貯蔵し、圧搾はキリンで行った。火入した醤油の表面には、醤油の蒸発を防ぐためえ、パラフィンまたは蝋を流した。 私は醤油造りは全く苦難の苦難の連続であった。もし私の上席者に醤油造りの専門家がおったら、、品質のよい醤油が出来たであろうし、会社もあるいは潰れずにすんだかもしれない。 鈴木氏は天才肌の人で、製糖界の成功者だから、自信過剰で、自分には専門外のことでも、専門家の意見に従わないで、何事も自分の常識で処理したのである。また鈴木社長は次から次へと80余の特許を活用して、色々のことをやらせるが、うまくいかないと怒鳴る習性があるので閉口した。 仕事は朝の6時から晩の6時までの12時間勤務であった。工具は18時間勤務の二交替制で、一週間毎に交替した。 当時の小名木川工場は砂村(現在の砂町)にあり、工場の周辺は田んぼで、付近には大日本製糖の精製工場と他に製粉工場が一つあるくらいで、近くには漁師も住んでいた。 鈴木藤三郎氏が、醬油事業に取り組んだのは、鈴木氏の促成醬油がハワイのような熱帯地方でもかびないし、遠洋航海に出る船が、醬油樽を積んでインド洋を往復しても、醬油は濃くなるが、カビが生えないのに自信を得たともいわれる。 藤三郎は明治36年(1903)10月、すなわち日ロ戦争の直前に、陸軍糧秣廠から醬油エキス製法の発明を依頼された際、その原料である醬油の醸造法を研究したら、醬油づくりは200年も改良されていないことを知り、新しい醬油醸造法の発明に心血を傾けるようになったという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年07月23日 11時25分38秒
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