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カテゴリ:鎌倉殿の13人
北条義時は、弟・北条時連(のちの時房)と頼時(のちの泰時)を頼家の元へ送り出す。
北条時連「えっ。年かさの私がそこに加わるのは、いささか無理が。これでも太郎の叔父です」 義時「年長者として、鎌倉殿がおかしな方に行ってしまわないように目を光らせよ。動きを逐一知らせてほしい」 時連は「悪目立ちしませんか」 政子「顔立ちが幼いから大丈夫よ」 時連「おさ…やらせていただきます」 三善康信による政(まつりごと)の講義の後、蹴鞠の練習。 後白河法皇の側近だった平知康が鎌倉に流れ着き、蹴鞠を教えていた。 時連だけ蹴鞠を落とさず、頼家は「やるではないか」と砂金の入った袋を与えた。 瀬戸康史 ▼蹴鞠「もらうボールによって、ちょっと弾みが違ったりとか、弾力が違ったりするんですけど、たまたまいいボールを頂いて、できましたね!いろんな決まりがあって、袖のところを両手の小指で挟んでなきゃいけないのと、姿勢は正しくピンと伸びた感じにしなきゃいけないのと、右足しか使っちゃいけないのと、1回蹴る度に足を着かなければいけないという、結構なルールがあって。僕、サッカー部だったんですけど、ちょっとリフティングとは違って、そこも気にしなきゃいけないので、難しかったですね」 ▼蹴鞠の才能「やっぱりうれしいですよね。自分に置き換えた時、まだまだ見いだされていないだけで、もしかしたら何かの才能があるのかもしれないという、希望みたいなものが見えたシーンだったかな。凄くハッピーな気持ちになりましたね」 ▼時連の才能について「彼にもあるかもしれないし、自分にも瀬戸康史にも、もしかしたら、例えばお茶を立てるセンスがあったりするかもしれないですね、やってみると。だから、自分が興味を持ったものとか、興味を持たなくても誰かに誘われてやってみようとか。そういうのは、どんどん挑戦していった方が、凄く自分の可能性みたいなものが広がる気がしますね」 *北条義時の異母弟。末っ子ながら、やがて義時も政子も頼る大政治家に。のちの北条時房。 文治5年(1189年)、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連(ときつら)と名乗る。 同年、奥州合戦に従軍。建久10年(1199年)に源頼朝が死去し、頼家が第二代鎌倉殿になると、蹴鞠に堪能なことから側近として随従する。 頼家が重用した比企能員の息子達とも気脈を通じていたが、北条氏一門のための間諜の役割を果たしていたとも考えられる。 建仁2年(1202年)に時房と改名。時連から時房に改名した経緯について、平知康から「時連」の「連」は銭の単位を意味する「貫」を連想し印象が悪いと指摘され、この知康の発言を耳にした頼家から改名を提言されたという逸話がある。 建仁3年(1203年)の比企能員の変により頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず北条氏一門として次第に重きをなすようになる。 元久2年(1205年)、畠山重忠の乱では兄の義時と共に重忠討伐に反対したが、時政の命により関戸の大将軍として出陣する。 牧氏事件で時政が失脚すると、8月9日の臨時除目で叙爵し、遠江守に任じられる。同年9月21日に駿河守に遷任し、承元4年(1210年)正月14日、武蔵守となる。 兄の義時は相模守であり、北条氏は兄弟で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。 建暦3年(1213年)、和田義盛が討伐された和田合戦にも従軍し、若宮大路で奮戦し武功を挙げ、戦後、その功績を賞され上総国飯富の荘園を拝領。 建保7年(1219年)、源実朝が暗殺されると上洛し、朝廷と交渉を行った末、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還した。 承久3年(1221年)、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。 泰時同様京に留まり、初代六波羅探題南方となる。 元仁元年(1224年)に兄義時が死去すると先に鎌倉へ帰還した執権泰時の招聘で鎌倉に戻り、泰時を補佐するため請われて同年初代連署に就任する。 なお、『吾妻鏡』では伊賀氏の乱最中の6月28日に北条政子邸で大江広元の同席の下に泰時と時房が「軍営御後見」に任じられ、それが事実上の執権就任ともされる。 当初は、北条氏の嫡男である泰時と一門の長老である時房の間で主導権を巡る争いがあったらしく、翌元仁2年(1225年)の元旦の垸飯の沙汰を行った後に一旦上洛している。しかし、同年に大江広元・北条政子が相次いで死去すると再び鎌倉に戻り、以後は泰時と共に鎌倉で政務を執った。 貞永元年(1232年)に将軍・藤原頼経が従三位に叙位されて政所を設置できるようになると、泰時と共に政所別当に就任したが、泰時は筆頭の別当を時房に譲った。 延応2年(1240年)死去。享年66。時房死去後の連署は1247年に甥北条重時が就任するまで空席となった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年07月23日 18時32分45秒
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