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2022年07月31日
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カテゴリ:鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」承久の乱「義時を討て」後鳥羽上皇の誤断
7/31(日)

・承久3(1221)年5月15日、承久の乱は後鳥羽上皇が諸国の守護・地頭に対して発した執権・北条義時の追討命令から始まります。

・後鳥羽上皇が幕府に、摂津国(大阪府)のふたつの荘園の地頭の罷免を要求した。どちらも、後鳥羽上皇が愛妾の亀菊*にあたえていた荘園で、上皇は意のままにならぬハエのような地頭を追い払おうとしたのです。

*亀菊(かめぎく、生没年未詳)は、鎌倉時代前期の白拍子。後鳥羽上皇の愛妾。伊賀局とも。
江口の遊女であったと見られ、この地域と関連のある摂津国長江・椋橋(大阪府豊中市)の荘園を上皇より与えられる。鎌倉で上皇と良好な関係を持っていた鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府は上皇の親王を新たな将軍として鎌倉へ迎えることを要請した。上皇は亀菊の所領である両荘の地頭が領主の命令を聞かないので免職にして地頭を廃止せよと要求して、幕府に譲歩を迫る。幕府は上皇の要求を拒否して両者の交渉は決裂、この亀菊の所領問題を絡めた将軍東下問題は、上皇と幕府の関係を悪化させ、2年後の承久の乱の一因となる。

・後鳥羽上皇は幕府軍との戦いに備え、着々と軍備拡張政策をすすめた。院の警護を強化するため、北面の武士に加えて、新たに西面の武士を新設していました。自衛部隊の増強です。
また、有能な軍人の“徴兵”にも乗り出していました。
眼を付けたのが、平賀朝雅の兄・大内(平賀)惟義*です。平賀朝雅は、北条時政と牧の方が次期将軍に立てようとしたものの、義時・政子にはばまれ、誅殺された元京都守護です。その兄を“徴兵”し、直属の部下に引き込んだのです。

*元久2年(1205年)の牧氏事件では北条時政により新将軍に担がれた異母弟の平賀朝雅が北条義時の命により誅殺されているが、惟義は事件に連座せず朝雅が有していた伊勢・伊賀守護を引き継いだ。建保元年(1213年)8月の3代将軍・源実朝の移徙では、執権・北条義時の次位として随行している。惟義は幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津など近畿6ヶ国の守護に任命される一方、在京御家人の代表として後鳥羽院に近侍して朝廷との接触を深めていった。
承久3年(1221年)、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。

・幕府の重鎮三浦義村の弟・三浦胤義*は、左衛門尉・検非違使という高位を授かって上皇に付き従っていた。それどころか、胤義は鎌倉の兄・義村に向けて、〈幕府を捨てて朝廷に従おう。上皇からの恩賞も確実だぜ!〉という手紙まで送ったのでした。

*三浦胤義は元久2年(1205年)の畠山重忠の乱、牧氏事件に兄の三浦義村とともに出陣。建暦3年(1213年)の和田合戦でも功を立て、建保6年(1218年)6月27日の源実朝の左大将拝賀には衛府の一人として参列していたことが『吾妻鏡』で裏付けられる
『承久記』慈光寺本によれば、後鳥羽上皇の近臣の藤原秀康から挙兵計画への参加を説得された際、秀康から本拠地である三浦や鎌倉を振り捨て都で宮仕えしているのには何か訳があるのだろうと訊ねられた胤義は、自分の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で若君(禅暁)を生んだが、頼家は北条時政に殺されてしまった。さらに若君もその子の義時に殺されてしまった。自分は先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上ったと述べている。
挙兵計画に参加した胤義は軍議で「朝敵となった以上、義時に味方する者は千人もいまい」と楽観的な見通しを述べている。また秀康から挙兵計画への参加を説得された際も兄の義村はきわめて「嗚呼ノ者」なので日本国総追捕使に任じられるなら必ず味方すると確約しており、終始、楽観的な見通しを持っていたことが裏付けられる。しかし、期待の義村は胤義から遣わされた使者を追い返した上に托された密書を幕府に届けてしまい、胤義の目算は崩れ去った。
鎌倉では上皇挙兵の報が伝わるや、北条政子が幕府創設以来の頼朝の恩顧を訴える史上名高い演説で御家人らの志気を鼓舞。『吾妻鏡』によれば、この際、政子は秀康と胤義の名を逆臣として挙げており、胤義は京方の中心人物という位置づけだった。
合戦が始まるや、京方の大将軍として美濃国と宇治川で幕府軍と戦うが敗北。幕府軍が京に乱入した6月15日には院の御所で最後の一戦を図るが、御所の門を閉じられ追い返されてしまい、逆に乱を引き起こした謀臣として逮捕の院宣を出されてしまう。
胤義は子息の胤連、兼義とともに西山の木嶋(現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社)で自害した。東国に残していた幼い子たちも長子を残して処刑された。『承久記』古活字本には「胤義其罪重シ」とあり、胤義を京方の中心人物と見なした上での厳罰だった。

・大江広元の子・大江親広*も朝廷側についたのです。親広は義時の娘を妻に娶っている、にもかかわらずです。

*鎌倉幕府政所初代別当大江広元の長男。母は多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘竹殿。
承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国食渡にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。この戦いでは父広元は大軍による上京策を献策し鎌倉軍の士気を高め、嫡男佐房は鎌倉側東海道方面軍に加わり幕府軍の勝利に貢献した。佐房は戦後上田荘を与えられ幕府要職に就いた。





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最終更新日  2022年07月31日 13時02分26秒



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