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カテゴリ:つぶやき
東京でジミーが店を持つにいたった経緯を大雑把に書きましたが、その頃富山・滑川の実家は戦後のゴタゴタ。
置屋の商売は続けていたと思いますが、昭和26年(僕の生年)に売春防止法が成立して、店が立ち行かなくなったようです。 玄関を入ってすぐの部屋をつぶして料理屋に改装しましたが、田舎ですから戦後の混乱期、客もなかったのではないでしょうか。 僕の両親は僕が生まれてすぐ離婚しました、父は富山地方裁判所の事務官だったようですが、店に通っているうちに母との結婚に至りました、祖母としては店を父に見てもらいたかったように聞いています。ただ父は役所を辞める気はさらさらなく、妻と子で富山市内に住むつもり。 で、祖母としては孫(僕)を手放したくなかったようで、結局父母は離婚、母もそんな祖母への反発心からか家を出る。小1まで祖母に育てられていました。 そこでジミー登場。僕が小1という事は昭和32年。ゲイバーが思いのほか当たり、経済的余裕もずいぶんできたのでしょう。商いのうまくいかなくなった滑川の店はたたませて、祖母を東京へ呼び寄せました。その時に何故か僕も祖母について東京へ出たのです。 東京での印象に残っているのは最初に住んだのが、東京タワーが造られて直ぐの時期だったようで昼に・夜に東京タワーが見える場所でした。先年、多分港区ではなかったかと思い港区図書館を訪れ、記憶と合致するアパートを昭和30年代の地図の中から見つけました。 木造洋館の多分外国人向けのアパートだったのでしょう、その頃都内の住宅事情は悪かったせいかジミーのアパートには店で使ってるゲイボーイが3人ほど一緒に暮らしていました、そこへ祖母と僕が転がり込んだ訳です。 小学校の方は、富山から東京への移動証明という書類がなく学校へは通えませんでした。移動証明のことも後年ネットで調べましたが実情は分かりません。戦後の混乱期の東京への人口一極集中を止める為の政策だと推察してるのですが、ともかく移動証明がないから学校へは行けないよとジミーか祖母から聞いた覚えがあります。住民票も移してないだろうしモグリの都民。 小2・3と行かず、書類がそろったのか、移動証明という制度がなくなったのか、4年生から小学校へ通えるようになりました。 今日はジミーのことより僕の話が多かったですね。とにもかくにもゲイボーイ達との合宿生活みたいな暮らし、学校も行かず彼らとしゃべったり、どこか遊びに連れていってもらったり。今から思えば不思議な空間で過ごしていたんだなと、なつかしさといった感情も湧いてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年06月21日 21時47分57秒
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