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カテゴリ:つぶやき
さてジミー、店の方は順調のようで、僕も学校へ行ってないこともあって、チョクチョク店に連れていかれて、何をするでもなく隅っこの方に座っていました。
ある時、開店前にカルーセル麻紀さんが店に来て、お互いよく知っている仲なんでしょう、豊胸手術後だったのか麻紀さんがジミーに胸を見せて、二人であれこれしゃべってました。 あと銀座の店で覚えているのが、女の子、小学校低学年くらいの子だったと思いますが、営業中に小さな花束を売りに店に入ってきました。ジミーも客もいぶかる様子もなく、女の子も一通り声をかけると出ていきました。2・3回は見たかな。 子供の花売りがいる、昭和30年代では当たり前の光景だったのでしょうか。 その後2年ほど経って、港区の洋館アパートからJR恵比寿駅から歩いて5分ぐらいの一軒家に引っ越しました。これも洋風2階建て。敷地は道路から玄関までほんの数歩ですが距離があって、道路に面している部分は洋風の庭。境界部分は背の低い木製の生垣のような塀ではなくて柵がありました。 1階は玄関入ってすぐに今でいうダイニングだけで、2階は玄関からすぐに階段で、8畳と12畳ぐらいの部屋が二つ。両方とも板張りで畳の部屋はなし。 僕が今まで住んだ家で、生家を除いて一番いい家でした。ジミーも気に入ってたようでしたが、祖母は畳の部屋がないのでどうも気にいらなかったみたいです。 恵比寿ではゲイボーイの出入りはよくありましたが、住むという事はなくゲーボーイ達との合宿生活も終了。 で、この恵比寿の時から書類の問題が解決したのか、近所の長谷屋戸小学校へ4年生から通えるようになりました。 でも、ジミーが店を銀座から新宿に移した関係で、より通いやすい信濃町へ引っ越し。小学校も四谷第6小学校へ転校。 ジミーの新宿のバーは「千鳥街」という所にありました。信濃町から都電で新宿方面、新宿御苑が終わった辺の少し先、都電に面した道から左に1本入った辺り。ここへも小学校が終わって帰ると、何を忘れたから持ってきてだのの用事をいいつかりよく行きました。 その信濃町時代、宝石屋さんの娘さん(美人でした)と付き合っていた時期もありジミーはバイセクシャルだったのかと思います。豊胸だのの手術はしてないし、むろん性転換手術もしていません。 銀座に店が出せたのも、新宿に移転できたのも、その頃東京で1位か2位かといわれていた葬儀社の役員M氏がパトロンになってくれていたお陰だと思います。奥さんも子供さん(中高生ぐらいだったかな)もいる方ですが同性愛への嗜好もあったんでしょうね。 不思議なことに夏休みだったと思いますが、M氏の家族旅行、軽井沢だったかに僕も一緒に連れていってもらい列車の旅、思えばおかしな組み合わせですね。 ジミーは店だけでなく、クラブで歌うこともあり、赤坂のキャバレー「ミカド」でステージに立つときこれも何故か僕が連れていかれ、楽屋で待っていたらメインのショーのフレンチカンカンの白人女性たちが入ってきて、オッパイは放りだしたままだし、喜んでいいのやらともかくビックリ!! あとは寺山修二さんの天井桟敷の「毛皮のマリー」にマリー役で出たり、寺山さんの舞台には他の作品でも出ていたようです。 ジミーにとっては一番人生の華やかな時期だったのでしょう。 登りきったらあとは転がる? Like a rolling stone. お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年06月23日 21時07分54秒
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