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カテゴリ:つぶやき
さて信濃町時代が、新宿の店の時代が、ジミーにとって一番いい時だったと思います。六本木にも店を出し、しばらくは両店ともやっていたと思いますが、最終的には六本木だけになったように覚えています。
この信濃町に住んでた時代、ジミーにとっても僕にとっても大きな転換点が訪れました。 僕が中1になって四谷第1中学へ通い初めて間もない5月に祖母が死にました。僕は変わらず中学へその後も通いましたが、中2になる前の春休み、ジミーが「名古屋のお母さんの所へ遊びに行こうか」と急に言いだし、飛行機に乗せてやるからと言われ、喜んで出かけたら、そのまま「今日から母さんと暮らすんだよ」と名古屋に置いてけぼり。 要は祖母が死んで、ジミー一人では育てられないという判断。賢明な判断と言っていいでしょうね。 でも、祖母(ジミーからいえば実母)が死に、たがが外れた。母親・甥っ子の為に働かなきゃというのが無くなって、自堕落な生活になってしまったようです。 医大に入学してしばらくは学籍があったでしょうから、下手に医学の知識はあり、信濃町時代はよく栄養剤を飲んだりしてました。その後僕が21の頃でしたが、その頃母の許を離れ京都で働いていた喫茶店に、東京・新宿四谷署から突然電話があり、ジミーを知っているかの問い合わせ。行き倒れか、アパート内でひっくり返ったらしい。 覚せい剤とかの違法薬物をやっていたら逮捕でしょうから、そこは大丈夫。とにかく身内が引き取るようにとの電話。既に再婚していた名古屋の母にも連絡があったようで、とりあえず母が行き、信濃町の半ばゴミ屋敷化していたアパートを片付け名古屋に連れてきました。母の再婚相手は道路舗装会社の役員でしたから、とりあえずはその会社の寮のような部屋に置いてもらいそこの仕事を手伝う。 でも土木工事の会社で、ジミーが勤まるはずがありません。しばらくそうしてたようですが、そこを出てしまい半ばホームレスのようになりまた行き倒れ状態。母が生活保護の手続でもしたんだろうと思いますが、入院し、その時に僕が息子を連れて会いに行った訳です。 その後転院し、その病院には僕一人で行きました。何をしゃべったかはよく覚えていませんが、ジミーの目が透き通って悲しげな鹿の目のように見えました。それがジミーと会った最期の時間となりました。 その後しばらくしてジミーが死んだと母から連絡がありました。本人の生前の意思で献体登録してあったので、葬儀も何もせず死んだらすぐ大学病院に引き渡したから、こっちへ来なくてもいいよとの事。 死因は多分癌だったと思います。形見は動かなくなったデジタルの腕時計一つ。 ジミーはどんな思いで死んでいったのかなと今でも時々思います。自分の好きなように思うように生きたとは思いますが、晩年といっても49歳で死にましたから、今生での生き方・死に方はそんな風に定められていたのかなと思います。 了 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2017年06月24日 22時49分14秒
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