|
カテゴリ:カテゴリ未分類
春になる頃、大叔母が亡くなった。
春休みの詩を連れて、お線香を上げに訪ねた。 「与えることで豊かになれることを教えてくれた人でしたね。すごい人だった」 なんて、大叔母の長男夫婦と話した。 彼女が与えてきた愛情に、報いた者もいれば、報いなかった者もいる。 報いなかった者に対しても恨むことをせず、その成功を喜び、これからの幸せを願っていらしたことに、感嘆すら覚えたものだった。 愛情を与えた対象が、その愛情に充分に報いなかったように見えても、それは甲斐のないことではないのだなと、ある時思い至った。 人には愛されたい欲求もあるけれど、愛したい欲求というのもあるのだと、その対象を得られたこと自体が恵みなのだと。 大叔母は多くの他人の子の面倒を見、育てた。 それを私はずっと献身、犠牲と思ってきたけれど、そうではなかったのだと、自分が40半ばでもう子どもは産めないと諦めた時、ふと気が付いた。 もう一人子どもが欲しかった、もう一度子どもを育てたい、そういう欲求があるのだと。 ただの献身、犠牲じゃなかったんだ。 愛情を注ぐこと、その対象を得られることは、大叔母にとって恵みだったに違いない。 そう思った時、救われた気持ちになった。 愛情って、多く与えられた者の勝ちみたいに、若かった頃は思ったものだったけれど。 親から愛された子の方が価値があって、愛されなかった子は値打ちのない奴、好きで生まれてきたんじゃないや、とか、生まれてごめんね、みたいに思ってしまったり。 片思いばかり繰り返す女の子は自分に自信が持てない。 恋人に振られると、存在価値を否定されたようにしか思えないし。 結婚せずにある程度年齢を重ねると、負け犬なんて言われるしね。 愛でもお金でも評価でも地位でも、求めることは、それは向上心とは呼べるだろうけれど、愛情に報いる気持ち、与える気持ちがあって、初めて豊かなのだろう。 まあそれぞれの報い方があるとは思うけれど。 求めてばかりでは、それは餓鬼、貧しさでしかない。 なんて、大叔母の死から思ったりした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|