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カテゴリ:文化
僕は、子供の頃から小刀で鉛筆を削るのが好き。 削っている時は、小刀の刃先に神経が集中をしていて、まるで座禅の”無”の境地のようです。 まったく刃先以外には感心が無く、無の精神で事にあたっていると感じます。 電動の鉛筆削り機のように芯をトガルセル事はしません。 芯ではなく、木の握り部分を綺麗に削る事に集中しているのです。 バランスがとれた綺麗な形に削る事の出来た時には感動をします。 この、たわいも無い事から多くを考える事があります。 日々の暮らしに置き換えて考える事もあります。 日々、同じように暮らしているように思っていますが、日々に慣れ、少しずつの変化に気付かず、気の付いた時には、思わぬ大きな変化があり、取り返しの付かない事。 鉛筆が書けている間は、鉛筆として何の不思議も感じないのですが、 ひとたび書けなくなると、鉛筆でありながら鉛筆で無くなるわけですから、 鉛筆として機能している間に、鉛筆の機能を失わないように手入れ(削る)すれば、取り返しの付かないという、機能の停止は起きないですからね。 この事を日々に、置き換えて考えたり、又、着物の着付けに置き換えたりしながら考えます。 鉛筆削り機で削った先がトガッタている芯、書くと形の崩れるものを綺麗と考え良しとするか、それとも、トガッテいないから、最初から変わりなく書ける形を良しとするか、 着付けて楽である事を出発点として着付けを考えるか、綺麗な形を出発点として着付けを考えるかにより、着物は簡単と考えられたり、着物は面倒と考えたり、着物が好きになれたり、着物が嫌いになったりするのではないでしょうか。 ”エンペツ”一つで、こんなに色々と考えるのは、変ですか。 蛇足ですが、「危ないから使わせない」という大人が増えていますが、 危ない事の体験も大事だと思います。 なにぶん、人は、自然という危険の中でのみ、生存が許されているのですから。 いよいよ、京都の桜も満開の処が増えてきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.04.06 11:05:41
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