カテゴリ:食べ物
「土を喰う」水上勉のこの本が大好きで食べるという事を考えるときいつもこの本に立ち返る。そこには自然と共存している大好きな生き方があるからだ。
これから書こうとしている事は「自然保護」について解決を求めて書いているのではない事をお許し頂きたい。 今いる空間(図書室)は本で埋まっているが、そこに自然があるわけではないからでもあるだろう。休みの日となると山に入り、自然と楽しむが必ずそこには人間が残したペットボトルやら、タイヤと言った自然とは逆行するものが捨てられているからであろう。 つい一人になると考えてしまう。 自然保護と環境問題は、食料問題と並んで、21世紀の人類が抱える最大の課題と考えて良いだろう。 言い古された言葉だが、オゾン層破壊、地球温暖化、森林伐採、環境に関する問題はより豊かな生活が物質にあると考えて実行した発露に他ならない。自然と共存する事に重きを置くより、貨幣利益を生む生活に人間が進んだ結果に他ならない。 それが良いのか悪いのかは別として、一度でも電気のある生活を望んだ文化は後退してランプの生活に戻ることは出来ない。原子力がどんなに危険なエネルギーであるとわかっていても・・その生活を現実として捨て去ることが出来ない。勿論少数派として捨て去った人もいるだろうが・・ 自然保護の問題は今やいきものだけに限らず菌や微生物までもが対象とされ、感情論が入り交じる。「鯨を守れ」「トキを守れ」と言った単純なものから、「生物多様性の保全」と言った感じでより複雑なものになってきている。そして、保護する立場から考える人は、生物多様性保と言う言葉だけが一人歩きを始め「とにかく生物多様性は保全しなければならない」と言う風潮が強迫観念のようにはびこってきてしまっている。「鯨を守ろう」的、自然保護は実に直線的で聞こえは良いが人間は食糧難の時代から鯨を喰ってきた。 それのどこがいけないと言う論について、ただ可愛そうだから、資源が枯渇するという点だけでは生きると言う論点から切り離されてしまう。皮肉な事だが鯨を食わない人より、食う人の方が、鯨がいかに資源として大事が分かっている人の方が多いと思うからである。 しかし自然保護区の指定は、その様な自然環境を人々から切り離す。 このような包括的保護の強化は、これまで以上に在地の文化の全面的改変を迫る。多様な生活文化は行き場を失い、「貨幣」へと統合されて行く。生物多様性も、人間の多様な文化も、地域の環境の中で生まれるが、そこに利益と言う言葉が付くとすぐに環境が破壊される。 自然とは己が生きる場を求める生命の発露として、共にかけがえの無いものである、多様な生き物と、人間の多様な生き方は本来同様のものではないだろうか。森を食うとは単に胃袋に入れるだけではない。一見物質的欲求を満たす目的に見える狩猟や採取と言った生業活動の中にも遊びの要素がある。 食べるためと貨幣を目的とした農耕は一見森と対立する反自然であるかに見えるが、水田の中にカルガモを生かし稲の害虫を食べる方法で稲作をしている所もある。 農薬を極力使わない事でカエルやドジョウが蘇生し水田が活性化することもある。 森や自然環境、その中の草木虫魚の一つ一つに至るまで文化に結びつかないものはない。 人間の生活から切り離し何も手を付けずただ保護するという発想は異様である。 むしろ人と自然との間で、いかなるつながる関係性があるかを問う事が重要である。 人間は森に入り、空を見たり、花を愛でたりすることで癒される。それは人間が自然と一緒に生きているからである。 近大は凶暴な生態征服の時代であったが、最近はコンクリートの場所にも再開発として必ず緑が植樹されている。コンクリートだけが文化であり、生活ではなくなってきている。 そこに自然があるという事がコンクリートを通した人間のつながりなのである。区切るという理論は一見自然保護になる気がするが、そこには自然環境に根差した文化の多様性をつぶす事になるかも知れない。資源として残される利点はあるが、共存と言う課題からは切り離されたままとなる。多様な価値が互いに尊重しあい共存する。多様な自然との関わりと多様な意見の異なる人達との関わりを排除することではなく、関わりを保持することが重要なのではないだろうか。 ふっとそんなことを考えた。 全然関係ないかと思われるかも知れないが、いじめ、自殺、猫の頭を切り取った事件、殺人事件、汚職、暴力等々、負の出来事が日常的に繰り返される世の中を見て何が足りないのか、何が人間をそういった負の事件に手を染めさせてしまうのか、自然と無関係ではない気がしていると思ったからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.10.16 20:33:19
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