ジャズバーで働きながら、台所で書かれた作品。
「風の歌を聴け」を読み返すのは、通算何十回目になるかは分からないが、読み返すほどに、冒頭の文が凄みを増してくる。
「例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない。」
「少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えることは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始めるだろう。」
若き日の村上春樹は、自らの数十年後を予言し、そして実現させた(と言っても良いだろう)。
「風の歌を聴け」は、時代や当時の文壇への挑戦状でもあり、作者の決意表明でもあった。そして、新しい風が吹いた。中には顔をしかめる者もいた。こんなものは小説ではない、と。しかし、私たちの多くはそれを自分だけにあてられたラブレターのように受け止めた。
「1973年のピンボール」は、書きたいことを書きたいように書いている。「スターシップ」ピンボールと再会するシーンは、なぜ心を打つのか。そこに堅苦しいテーマなどは微塵もなく、文章それ自体が楽しいからだ。サナギがぺりぺりと皮をはがし、なかから光輝く蝶が出てくる瞬間を始めて目にしたときの感動がある。
英文で書き、それを日本語に直すという試みから得られた新しいシンプルな文体。進化し続ける文章。
(誤解を恐れずにいえば)小説としては、不完全である。しかし、不完全であるが故に、完成されている。1を足しても、あるいは1を引いてもいけない。他者の介入はもちろん作者自身の修正をも拒んでいる。そのままとして完璧な原石。
このようにして幻の小説は、台所で誕生した。
以降、若き日の村上春樹はジャズバーを辞め、専業作家としての道を選んだ。それから、38年間、コンスタントに作品を発表し続けている。