というタイトルを見つけたのは、今日付け地元紙文化面の論考欄。『メディア変える戦いを』という大見出しが付いていましたので、そのまま引用させていただきます。
『山本美香さんの死
8月20日、シリア北部のアレッポで日本人ジャーナリストの山本美香さんが殺害された。
山本さんは10年近く前、イラク戦争報道を検証する番組で、同席した記憶がある。西側報道陣の定宿だったバクダッド市内のホテルがイラク政府軍に「誤撃」された事件の目撃談を語り、犠牲となった欧米人記者の血まみれの遺体映像を番組に提供していた。そんな山本さん自身が今度は銃弾の犠牲になった。やり切れない思いがした。
疎外する場
ジャーナリストが取材しなければ、戦場で何が起きているのか、外部からうかがい知れない。だからこそ戦争報道はなくてはならないといわれる。だが、戦闘の激しい地区に入るために従軍取材のスタイルを取る場合、従軍させた側はスポークスマンとしてジャーナリストを利用しようとするし、相手側の目にそんなジャーナリストの姿は敵として映るだろう。
反体制武装組織「自由シリア軍」に案内された取材中、政府軍との戦闘に巻き込まれたと報じられているので、山本さんも敵とみなされたのか。だとすれば不本意だったはずだ。誰をも敵・味方に隔ててしまう戦争それ自体の悲しさ、非人道性を訴えたいというのが彼女の思いであり、戦争に巻き込まれた一般市民、特に子どもをよく取材していたと聞いている。
だが、自らの正義を実現する手段として武器を摂った人たちにしてみれば、そうした反戦的報道も自分たちの信念を否定する敵対的な行為に思えよう。このように「中立公正」なるジャーナリズムの理念が戦場では通用しない。ジャーナリズムの監視を最も必要とする戦場は、最もジャーナリズムを疎外する場でもある。ジャーナリストはそこで、一方で銃に守られ、他方では銃口を向けられつつ取材せざるをえない。
おいしいネタ
では、そこまで危険を冒しつつ取材した成果は、どう報道されるのか。社会学者ニクラス・ルーマンはマスメディアシステムを生物にたとえて考えた。遺伝子をリレーしつつ生命を継続させてゆく生物と同じように、マスメディアもコミュニケーションを継続させて生き続けようとする。マスメディアはその生存戦略から、真実や正義の追求よりも、扇情的で刺激的な情報を選んで伝える。そこから波紋が広がることによって、コミュニケーションが継続されやすいからだ。
センセーショナルな情報こそマスメディアシステムを駆動する「栄養」となるー。こうしたルーマンの考え方は極端なようだが、現実の一定部分を的確に説明しているのではないか。
たとえば日本でシリアの内戦状況が懸念されたことはほとんどなかった。より「おいしい」ネタが国内に十分にあり、マスメディアはそちらを主に報道していた。そこに山本さんの悲報が届き、状況が一変する。とはいえ、それは自国の女性ジャーナリストが殺されたという刺激的なニュースとして選ばれ、耳目を集めたのであり、そこから遠方で繰り広げられている戦争の実情に関心が及んだわけではない。
感傷的気分
かつて山本さんと同席した報道検証番組で、戦場の死体を映すべきかという問いかけに応えて視聴者から番組に寄せられたファクスに、「夕食時は避けてほしい」という意見が交じっていたことを今も覚えている。自らの平穏な日常生活を守ろうとする姿勢は、時として他者の不幸に対する過度の冷淡さに傾く。戦争報道は、たとえば死体の映像を露出させる刺激主義に傾いたとしても、そうした内向きの意識を変えられていない。
弾幕をかいくぐる戦場ジャーナリストたちの勇気には最大限の敬意を払いたい。しかし。戦場に赴くだけでなく、戦争取材のあるべき姿を考え戦争の本質を正しくつたえられるようにマスメディアシステムを変え、他者の生を何より尊重する社会をともにつくっていく。そんな「銃後」の戦いにも挑まずには、戦場ジャーナリストの死は刺激的情報として、一瞬の感傷的気分の中で消費され続けるだけだろう。(東京女学園大教授 武田徹)』『』部分引用です。
視聴率競争を煽っているのも視聴者の側にあるとしたら、もっと賢くならなきゃ駄目ですね。数字にだけ踊らされて、より刺激的な話題を選んで報道するのもどうかと思うけど。1億人総白痴化が叫ばれて一体何十年になるのかなぁ。確かに、こうした報道番組を観たからって、各地で起きている戦争が無くなるわけじゃないけど、どれだけこの国が平和であるか。ということぐらいはわかるのじゃないかな。改めて、山本美香様のご冥福をお祈りします。