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坂東市進学塾 スタディ・ポート 港日記

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2020.10.25
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カテゴリ:カテゴリ未分類
横浜翠嵐高校→私立単願→一浪して早大政経学部という親しい友人がいます。

本人は本当は京都大学に行きたかったらしいのですが3人きょうだいの長男だったこともあり、ご両親から「浪人してもかまわないから東京の大学に行ってくれ」と言われて現役のときから私大一本だったということです。

1987年の早大政経学部の学費というのは前期21万円、後期21万円で年間合計で42万円でした。

バイトの時給も現在とたいして変わらなかったと思いますので自宅生であれば親にほとんど負担をかけずに通うこともできました。

ちなみに慶応大学はもっと安かったです。

私も下妻までのバス代が年間で年間25万円かかっていたので、東京での生活費はさておき、大学の学費そのものについては親も拍子抜けするほどでした。

うちの場合は「浪人するくらいなら私立に行け」という方針だったので一度しか受けられない国立大学よりは複数受けられる私立大学を受験することになりました。

当時の下妻一高は現在と異なり、高2までは文系理系の区別がありませんでした。

ですから全員が理科は物理、化学、生物、地学を履修しています。

そして、高3になるときにクラス分けがあり、英・国・社・体育しか授業のない私立文系クラス(3年7組)となりました。

「暴露趣味もたいがいにしろよ」と叱られるかもしれませんが、「あの人、高校の頃は数学はからっきしダメだったらしいよ。」という風評は塾講師としては封じておかないといけないので高2の夏と秋の校内実力テストの「理系」の成績表を貼りつけておきます。

理系順位。

上が高2夏期実力テスト(数・英)、
下が高2秋期実力テスト(数・理・英)。

数字は上から点数合計、偏差値合計、順位、全受験者数。夏期が301名中6位、秋期が301名中7位。




把握しているだけでも同じ学年から5人が医師になっていますし、旧帝や筑波大の理系もいますので私の理系成績もそんなにひどいものではなかったと思います。

「国公立100名」を絶対目標に掲げ進学校と化した現在の下妻一高で「私立文系にします。国立は受からないので受けません。」とか言い出したら親が呼び出されていたかもしれません。

2年のときの同じクラスで3年のときは一緒に応援団をやっていて難関国立の医学部に行った友人(イニシャルを書くと特定されるおそれがあるのであえて友人としておきます)と話をするたびに全く能力が違う人がいることに気づかされました。

「頭の良さ」も違うのですが「頭の体力」が全く敵わない感じがしました。

自分の個人的な感覚としては大学受験というのは4回受けて力を発揮できるのは2回、その力を発揮できた2回のうち1回は落ちる、その一方であまり手応えがなくても受かる場合もある、すなわち模試の合格可能性が十分であっても確実なのは4回に1回のような気がします。

私も上智大学の法学部国際関係法学科というところに落ちました。模試ではA判定でしたし、1年間の模試と全部で4つ受けた大学入試を含め年間でこれ以上ないほどの最高の出来だったにもかかわらず。

(つけ加えておくと上智の外国語学部の方は秋に過去問を解いて時間内で半分も解くことが出きず受験そのものを断念。慶応の文学部も英文が長いうえに内容が難解すぎて全く歯が立たず受験を断念。模試判定は全てA。

下妻一高の同学年から現役で慶応の文学部英文科、上智の法学部法律学科、上智の文学部英文科に進学していています。さらに一浪してドカドカと。

慶応の英文科に行った人はいつも分厚い英文の小説を持っていて医学部に行った人とは別の意味で「ああ自分とは全く別の能力の人がいるな」と思わされました。点数はなんとか勝負になったのですが英語で長い小説を読むなんて自分には信じられない世界でした。

皆、複数大学、複数学部を受験しているので総合格者数はかなりの数になりました。)

早稲田に入ってから政経学部や法学部の人たちと話すと上智の国際関係法学科は俺も俺もとことごとく落ちていました。

ウィキペディアによると上智大学法学部国際関係法学科について「かつては慶応の経済学部、早稲田の政治経済学部と並ぶ私大最難関であったが現在では…」と書いてありますがこれは大きな誤りで比較にならない圧倒的な難しさでした。

早稲田の政治経済学部も法学部も定員が各1,100名なのにこちらは当時の定員が40名、真剣受験者のみの実質倍率も40倍くらいあったと思います。

よく「センター試験で失敗してしまって・・」という話を聞きますが、この言葉は、あながち言い訳とは思えません。

私も国立大学を受けていたら緊張のあまり失敗、一浪して再び失敗、早稲田の政治経済学部は当時も国立併願組は開成から東大を落ちたような人しかいなかったので私立も失敗して迷走という結果になっていた可能性はたいへんに高かったと思います。

それにしても私立だけでなく国立も学費があまりに高くなってしまいました。

高校の先生に資料を見せていただくと茨城大学の滑り止めには、保護者の皆さんが「この程度の私大なら」と思われているところはほとんど合格可能性が0です。

では茨城大学にどの程度で合格できるかというと下妻一高レベルの高校で学年50位を下回ったらもうかなり厳しいです。(異論はないと思います。)

つまり中学時代の偏差値が60と言わず、65の人が高校3年間、毎日怠らず努力を積み重ね、きちんと学力を伸ばしてようやく受かるか受からないか微妙というところでしょう。

教育系の国立大学は統合しようとするのが国の方向性のようですが、可処分所得が1996年を最高として2000年以降は一貫して下がり続け、大学の学費は上がり続け、私大の一般入試は難化を続けという状況にあっては、茨城県の高校生が遠方のナントカ県立大学に行かなくてもすむように筑波大、茨城大の次の層の受け皿として、また茨城大学が他の大学と統合したときの安全弁として「県大」(茨城県立大学)の設置も必要になってくる気がします。

「財政状況も考えずに」「用地は?」という矢が飛んできそうですが、それを振り払い、あえて主張してみます。

中高一貫校で一つ、さらに県内にもう一つ教育の新しい流れをつくるとしたら茨城県流の特色ある大学教育まで考えてみたらどうでしょう。

これだけ全国に公立の大学があるなら茨城にあってもおかしくはないでしょう。

これまで、卒塾生の何人かから、センターの出来具合により、さらには前期失敗後の後期日程で本人も親も全く思ってもみなかったとんでもなく遠方の公立大学を突然に勧められ短時間で決定しなければならず、「どうしたらよいでしょう?」と相談に来られてずいぶんと私も戸惑いました。

古い人間なので茨城県から進学する公立大学というと高崎経済大と都留文科大と横浜市立大しか思い浮かばないんですよね。それぞれ独特な特徴を持った大学です。

「北見、釧路、沖縄…」(北見は国立ですが)

北見は入学後の初めの冬に凍っていないかご両親が心配になって確認に行きました。

どれだけ遠征するのか。

「やっぱり国公立の教育環境は私立に比べていいですからねえと高校で言われました。」と言われても。。

国立大学を勧めるのはいいのですが、「国公立◯名合格!」「◯年連続国公立◯人!」という必須目標みたいなものはもういかげんやめませんか。

前にも書きましたが知人(都内と横浜出身の夫婦)の娘さんがある県立高校(下妻一高ではない)に通っていて、経済的な余裕もあるので初めから都内の私大を目指したら人間扱いされなかったと嘆いていました。

下妻一高もちょっと前に諏訪東京理科大が私立大学から公立大学に変わった瞬間(1年目)を逃さずに多数の合格者を出すという「荒技」を繰り出したときには「これはどういう意味なんだろう?みんな本当に長野に行きたいのか?それならいいけど。」と思いました。

国立大学の人数指標としては東大、医学部、旧帝大、筑波大、茨城大くらいで十分なのではないでしょうか。

新しい県の教育長は明治の法学部出身のようですし、これまでとは別の視点を望みます。





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最終更新日  2020.10.27 18:09:06
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