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カテゴリ:爺さんの奮戦日記
「人間は、考える葦である」と言った哲学者がいた。考えることで、人間以外の動物や植物から、異化したのである。しからば,考えるとは何か。それは,考えることを指名された人間が指名した者に対して,何を為すべきなのかである。考えることを指名したのは,5万年の人間の時である。5万年とは、宇宙の中で地球が生きてきた数分の時である。しかるに人間の思考は、時という流れの中で生まれたものである。時というものがあるのか無いのかも問題である。広漠たる宇宙からすれば,銀河歴も太陽経歴も地球歴も限りなく0に等しい。
時というのも,おかしな考えである。時間とは何かを考えても,時の概念を作ったのは人間であるから、元々時があるのかどうかも解らない。只、「そう考えている」と言うだけのことである。 時は,光の速度から出てきた概念である。しかし、宇宙の果ては光より早い速度で今のところ膨化しているという。だから、宇宙の果てにある物体(星・天体)の光は永遠に我々には観測できない。光より速い速度はあるのであると考えられている。 話を戻そう。人間はなぜ考え(思考)るのかと言うことであった。時のいたずらで,思考力を与えられた人間は,宇宙の失敗作であったのかも知れないが、とかく考えないと、人間は今のところ唯一の生命体である地球を破壊しかねないから、思考するよう宇宙の法則によって運命ずけられたのであろう。 前にも述べたが,人間は共存という点では,下等動物以下である。共存しきれない動植物は絶滅している。人間が絶滅を図ったのもあるが、共存という大範疇の中にすっぽりとはまっているのである。 思うに,哲学は,共存の為にあるように思う。共存のために哲学するのである。自我の確立のために哲学するのではない。自我なんてものは,結論として言えば元々無いのである。自我とは何かを問うてきた長い哲学の歴史は,間違っていたのではないだろうか。 哲学とは、この共存下等動物たる人間に共存のなんたるかを考えさせるために、進展してきたもののように思われる。 もし、宇宙の予定が人間を共存高等動物に進化するように仕向けているとするならば,私は,その宇宙の法則に感謝し,また、たとえ、共存下等動物のままにしておくとしても、私は,宇宙の法則に感謝する。なぜなら、それが宇宙の法則だから。 哲学とは,人間の都合によって,大宇宙を変えようとするのではなく、大宇宙の法則(哲学)をいかにして受け入れるかに寄与する,単なる受諾の思考方法でなくてはならないのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 2, 2008 01:16:02 AM
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