3月11日
何時何分なんて見ている余裕はなかった。
いや,実際見ていたのかもしれないが,そんなもの,これっぽちも記憶には残っていない。
足元がわずかにぐらついた。
ああ,また一昨日の地震の余震かと,高をくくっていた。
震度5強だった一昨日の揺れ。
2年半前の,岩手宮城内陸地震と比べれば,揺れの長さに閉口したものの,被害もなく,たいしたことはなかった。
その後,余震が続いていたが,そのうち収まるだろうと思っていたし,「また宮城県沖地震じゃないんだって!」なんて軽口をたたいていた。
ニュースで見た津波情報も,数十センチ。
宮城県沖地震もこんなもんで済めばいいなぁなんて思っていた。
カタカタ鳴っていた地面が,強い力で足元をすくったのは,数秒後だった。
これは大きい。
急いで逃げ道の確保。
ドアを開けて押さえる。
揺れはどんどん強さを増した。
これは,一昨日よりも大きい。
余震じゃなかったのか。
ドアから離れようとすると,ドアは揺れで閉じてしまう。
そのまま押さえているしかなかった。
しかし,揺れの強さでドアに挟まれる。
もはや,普通に立っていることのできない揺れだ。
2年前より,強い。
普通なら,そろそろ収まるくらいの時間,揺れた。
徐々に弱まっていくはずだ。
しかし,この地震は,そんなもんでは終わらなかった。
一旦緩んだと見せかけ,次にうねるような揺れが襲ってきた。
こんな揺れ方は経験がない。
床が歪んでいるように見えた。
これで,今週末のスキーはなくなったなと思った。
防災無線が何かを言っているが,聞き取る余裕もない。
ドアにしがみつくように押さえながら,早く,早く収まってくれと,そんな思いでいっぱいだった。
とにかく長いこと揺れた。
これでもかというように,波が押し寄せた。
泣きたくなった。
このまま永遠に揺れ続けて,地球がどうにかなってしまうのではないかと思った。
どのくらいの間揺れていたのかは,全く分からない。
とにかく,長い悪夢だった。
こんなに揺れた後,外に避難しても果たして意味があるのかと思うほど,長かった。
揺れが強くなった直後,部屋の電気は消えていた。
あっという間に電線が切れたのか。
防災無線の,機械的な声がようやく耳に入ってきた。
震度6強。確か,そういっていた。
2年前の震度6弱よりはるかに強かったと思う。
それからしばらく余震が続いた。
立っていても大きいと思うほどの余震で,電柱がぐらぐら揺れていた。
しばらく外に避難していた。
気付いたときは,3時半頃だったように思う。
小雪が舞っていた3月の空は,風が出てきて吹雪となっていた。
上着もなく避難してきたので,吹きさらされて寒いのだが,それ以上の何かが,寒さを忘れさせていた。
だいぶ冷え込んできたから,中に入った。
部屋の中はひどい有り様だった。
外の寒さ以上に,寒気を感じた。
過去の地震体験からは考えられないほど,あらゆるものがめちゃめちゃだった。
書類が散乱していたのは当たり前。
デスクは小躍りしたかのように,定位置とは違う場所にあった。
一つは足が1本折れていた。
棚という棚は倒れ,デスクを押しつぶしていた。
少しでも避難が遅ければ命はなかったであろう上司。
ガラスがあちこちに飛び散っていた。
まだ余震は続いていた。
そろそろ日も傾いてきた。
電気は消えたままだ。
時折,余震の震度と注意を伝える防災無線だけが情報源だ。
しばらくして,携帯のwebで,震度7だったこと,津波が発生していることを知る。
広範囲で強い揺れだったこと,宮城県沖地震ではなかったことが,分かった。
平成23年度東北地方太平洋沖地震。
マグニチュードは8.8,宮城県北部は震度7の巨大地震。
それが,長い悪夢のデータだそうだ。
巨大地震なんて表現,初めて聞いた。
ここが震度7だったかは分からないが,二度と体験したくない揺れだった。
停電のまま夜を迎えることになった。
家に戻る途中の道路は,陥没して通行止めらしいという情報があったので,職場に泊まった。
車に乗せていたシュラフと,スキーウェア,ホッカイロが役に立った。
それでも,冬のような冷え込みで,顔がとても冷たい。
ライフラインの寸断は初めての事。
いかに日頃,電気に頼っていたかに気付かされた。
懐中電灯の灯りの中,かき集めたお菓子を夕食にして,ラジオの情報を聞きながら横になった。
「仙台市太白区荒浜で,おぼれたと見られる200~300人の遺体が…」という情報に,大変な状況であることは分かったが,寒々しい思いはするものの,実感が湧かない。
津波は6m以上になったところもあるらしい。
信じられない規模で,街が飲み込まれていったようだ。
被害があるのはここだけではない,ということに不安を感じていた。
復旧は遅くなりそうだと。
寝る頃には携帯電話が圏外になり,メールも送れなくなった。
実家も停電なのだろうか。
ばあちゃんは無事かな。
続く余震はもう気にならなくなっていた。
寒さに耐えながら目をつぶった。
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たぶん,これを書いたのは,昨年3月12日の夜です。
停電で,ネットもできず,仕事もできず,夜にすることもなかったから,ヘッドライトを付けて,日記を書き始めました。
今のことを,今の気持ちのまま,書き残さなければという気持ちになったのです。
A5サイズのスピッツ手帳に,11日の分は6ページ書き綴っていました。
ここには,仕事の内容に関することや,個人的内容は端折っています。
その後,日記はGWまで書き続けていました。
そこでやめたのは,私がいつもの生活をだいたい取り戻せたからだと思います。
1年経ったら読もうと思っていたので,読みましたが,なにぶん長くてf(^_^;)
でも,書いておいて良かったと思います。
様々な気持ちの動きが思い出されます。
この時の気持ち,忘れちゃいけないと思っていても,結構忘れているもんです。
読み返して良かった,と思いました。
11日の日記だけ書いてみましたが,お読みいただくと分かるように,危機感が,少ないんです。
この時の私,自分とこが一番ひどいと思っていました。
津波で大変なことになっているっぽいことは,なんとなく聞いてはいるんですが,実感がないんですよ。
だからどこか,芝居がかった日記だと,自分でも思いました。
自己満足の日記です。
今ここに書いているのも,自己満足なんですがf(^_^;)
その後日を読み進めると,そんな悲劇のヒロインちっくな日記じゃなくなってきます。
深刻になっています。
そういうのも一つ,気持ちの揺れ動きですね。
震災は,揺れた11日よりも,その後の方がずっとずっと大変でした。
今日は,子育て中の友達の家に行って,テレビを見ながら黙祷をしてきました。
はる☆の家,テレビが無いからf(^_^;)
彼女は,昨年産休に入った直後にこの震災。
停電や断水など,いろいろと大変な中での出産,育児で今に至ります。
だからその友達と今日を迎えたいなと思ったわけです。
それと,はる☆は地震の起こった翌日から,自身の身の回りの被害状況を写真に収めていました。
可能な範囲で。
それは,はる☆だけの記録にしておこうとも思ったのですが,1年経った区切りとして,プリントすることにしたのです。
先週まで,津波の被害を受けた地域の,今の写真も含めて。
350枚ほどプリントしました。
ずっと撮り続けてきたわけではないけれど。
こんなものも撮っていたんだなというものもありました。
コンビニの青空商店とか(笑)
あまり外に出歩かなかった友達に,それらを見せたかったんです。
震災はまだまだ終わっていないから,はる☆のアルバムには,これからも写真が増えていくと思います。
それに,まだ訪れていない地域もあるし。
今日は,はる☆は一区切りとして,自分の震災を振り返りました。
自分のことで精一杯のところは,あの時も今も変わっていません(>_<)
私にできることなんて,たかが知れていますが。
とりあえず,明日の仕事,頑張ります(T_T)