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これまで家で朝食を食べるときは、ほぼたくさん盛ることができる味噌汁椀にご飯を盛って食べていた(多分8年間くらい)のだが、今朝はご飯茶碗を選んだ。
味噌汁椀を選ぶこともご飯茶碗を選ぶこともどちらも超些細なことで、誰でもできる。 かつ、 味噌汁椀でご飯を食べようがご飯茶碗でご飯を食べようが、食べること自体はできるわけだ。 はたからみたらこんな日記、糞だ。 しかし、今朝の僕には、この行為自体にすごい意味というか、気付きがあった。 例えば、人は朝起きた瞬間から、トイレに行くかどうか、ご飯を食べるかどうか、茶碗を使うかどうかなど選択を続ける、つまり人生は選択の連続である。 ましてや、組織であれば、どんなしょぼい会社でも一日に恐ろしい数というか量の選択をしているわけだ。 選択以外にもいろいろな要素はあるだろうが、 あえてそれを含めないでシンプルにしたら、 人生も組織も「選択>アクション>結果」の永遠の繰り返しになる。 「ご飯を食べるかどうか、茶碗で食べるかどうか」自体は非常に些細で、誰にも迷惑を与えないだろうが、 実は 何気なく選んでいたり、 ムードでなんとなく所定の様式なり意見が当たり前、、みたいな雰囲気 いつもやっているから楽ちん、、だからこれを選択、、 って合理的でなかったり、非常に危険な可能性もあったりするわけだ。 これを朝飯で強く再認識した。 あなどれないぜ、焼肉丼。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2004年06月08日 01時51分02秒
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