【秩父】番外地[1] 武甲山
秩父三十三ヶ所の巡礼に車で向かう場合、多くの人は、関越道の花園インター方面から秩父盆地に入ってゆくと思う。長瀞の街なかをスルーできる有料のバイパスの終点から国道140号に出る。秩父方面に進路をとるとすぐ、進行方向に、ひときわ存在感のある独立峰が目に飛び込んでくる。それが武甲山。関東を代表する山のひとつ。日本武尊が山頂に兜を納めたことがその名の由来というけれど、そもそもその姿自体が兜のようで、力強く雄々しい。しかし、目にした瞬間の存在感と共に、その姿に拒絶感も芽生える。山体が、尖った山頂部分から山腹一帯にかけて横縞模様にえぐられていて、まるで追いはぎに服ばかりか肉までむしられたように見える。あるいは、タリバンによって破壊される前のバーミヤンの巨大石仏の、顔面が削られたあの無残な姿にも似ているような。いずれにせよ、それはどう見ても人為的な仕業だ。とうてい気持ちのいい景色には思えず、やり過ごしていたが、傷ついてもなお存在感があるのか、傷ついたからこそ存在感を増したのか、巡礼中にこの山を気にせずにいられるわけがなく、むしろこちらの意識に割り込むかのように、端々に顔をのぞかせる。そして六番・卜雲寺。聖観音菩薩さまを拝み、くるっと背を向くと、横瀬川の谷の向こうから、武甲山がこちらを向いていた。この時はじめて、この山を美しいと感じる。削られた山肌が白く見えるのは、この山の北側一帯を石灰岩が覆っている証し。この石灰岩をコンクリートなどに利用するために、明治~大正期から、この山は100年にも渡って削りに削られている。昭和になるとその手は山頂にまで及んで、明治には1,336mあった標高が、現在は1,304mにまで低下してしまった。二十三番・音楽寺の納経所の奥を覗くと、雲海に浮かぶ武甲山を背にした音楽寺の観音堂を映した写真が飾られている。白黒で、かなり古い写真だと思う。この写真によれば、かつての武甲山は、秩父盆地から見る限り、少なくとも今のように山頂が尖っては見えなかったようで、現在尖って見える山頂の手前、つまり秩父盆地側に本当のピークがあったらしい。これほどまでに削ってしまったのかと実感させられる写真だ。最近は地域住民の運動によって景観重視の掘削に方向転換しているというけれど、実は山の中にも坑道が掘り巡らされているらしく、蝕まれているのは外見だけではないというのが、また嫌悪感をあおる。そればかりか、山頂にあった縄文期以降の遺跡が破壊され、横瀬町の村社である武甲山御嶽神社までも移転することになったというから、こうした事例だけを捉えれば、企業の暴利にも程があると言いたくなる。しかし。ここから掘り出された石灰岩を使ったコンクリートによって、東京に住む自分の生活も少なからず潤いを得ているであろうことも、きっと事実。横瀬を巡礼していると石灰岩を積んだトラックと頻繁にすれ違うけれど、市町村合併の大波の中で横瀬町が町であり続けられるのも、きっとそのトラックを操る企業に依存するところが大きいに違いない。車で巡礼していることへの後ろめたさもそのひとつだけれど、巡礼なんて古臭いことに身を投じてみると、逆に文明の輪郭が見えてきた。5月1日に武甲山の山が開いたら、一度登ってみようと思う。頂から、巡礼の里に広がった文明の輝きを、俯瞰してみたい。