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カテゴリ:ハイデラバードの暮らし
朝5時半から定時の2時半まで働き、それから亡くなった同僚の葬儀に出掛け、帰ってきたのは夜10時過ぎです。
もう心身ともに疲れ果てました。 職場から葬儀に参列したのは16人。 普段よくしゃべる人が寡黙だったり、普段よく食べる人が全然食べなかったり、ずっと重い空気が流れていました。 葬儀が行われたのは、亡くなった同僚の実家がある町で、ハイデラバードから約100km離れています。 なぜか、町中に豚がいて、インド人は豚をほとんど食用としないことから考えると野良豚のように思うのですが、そんなことを気にかけて質問できるような雰囲気では当然ありません。 写真も禁止です。 葬儀では、同僚の実家から、太鼓をたたく人達を先頭に、その後ろに遺体と家族を乗せたトラックが続き、さらに親族、友人、その他野次馬など、総勢200~300人もの人が歩いて町外れの湖に向かいます。 途中遺体がトラックから降ろされ、私も含め順番に花を捧げます。 顔には目立った傷もなく、ただ寝ているだけでまた起き出してくるような気さえします。 湖のほとりに着くと、用意されてあった薪の上に遺体が乗せられ、さらにその上に皆で薪を乗せ、油がまかれ、火が付けられます。 その後、皆で町まで歩いて戻ったのですが、「決して後ろを振り返ってはいけない」そうです。 理由は分かりません。 とにかく、僕も皆も、必要最低限のこと以外は話したくないのです。 クリスチャンやムスリムの中には火葬に対して嫌悪感を示す人も少なからずいますが、仏教と近い関係にあるヒンドゥー教では火葬が一般的です。 火葬をすると「本当に亡くなったんだ」ということが思い知らされます。 残された人が故人への未練を断つため、故人がこの世への未練を絶つため、火葬という区切りが必要ではないかと、火葬に慣れた日本人としてそう思ったりもします。 お年寄りなら亡くなっても悲しくないかと言うと、決してそういう訳ではないのですが、若くして亡くなる場合、事件や事故、自殺など、突然でやりきれない思いをすることがほとんどです。 日本でも何度か経験のあることですが、できる限りこのような思いはしたくないものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年01月19日 23時42分20秒
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