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じゃくの音楽日記帳

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2014.03.23
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カテゴリ:演奏会(2014年)
びわ湖での大きな感動体験の直後、今度は新国立劇場でどんな死の都を聴けるのでしょうか。
新国立劇場では、3月12日から24日の間に、全5回公演が現在進行中です。僕は最初は1回だけ聴く予定でしたが、公演が近づいてきてCDを聴いていると、あまりに音楽が美しすぎて、この貴重な機会を1回だけですますのは勿体なさすぎると思い、2回行くことにしました。まず3月18日、全5回公演の3回目を聴きました。この記事はその3月18日公演の感想です。

コルンゴルト 「死の都」
指揮:ヤロスラフ・キズリンク
演出:カスパー・ホルテン
パウル:トルステン・ケール
マリエッタ/(マリーの声):ミーガン・ミラー
フランク/フリッツ:アントン・ケレミチョフ (トーマス・ヨハネス・マイヤーの代役)    
ブリギッタ:山下牧子

管弦楽:東京交響楽団
合唱:新国立劇場合唱団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団

パウル役のケールさんは定評どおり、素晴らしかったです。パウルの様々に錯綜する想いを、余裕を持って表現の幅広く歌っていたのは本当に見事でした。最後のアリア、ゆっくりしみじみと、余韻をたたえて聴かせてくれました。このパウルを聴けたことが今回の最大の収穫でした。

マリエッタ役のミラーさんは、ドラマティックな表現に長け、あるときは肉感的にパウルに迫り、あるときは丁々発止とパウルとわたりあう、そのアピールの強さが素晴らしく、その方向での聞き応えが十分にあり、楽しめました。このミラーさんは終了後にも盛大な喝采をあびていました。

この主役二人の貫禄ある歌いぶりで、びわ湖とはまた違った魅力を伝えてくれる舞台でした。ただ、びわ湖での音楽体験があまりにも素晴らしかったせいもありますが、僕は今回の公演に少なからぬ物足りなさを感じました。

その最大の点は、指揮者でした。とても丁寧に振っていましたし、オペラ最後のパウルの歌のゆっくりとしたテンポなど、良い点もありました。しかし、ともかくオケの音楽が、おとなしすぎ、控えめすぎでした。歌手の伴奏をきちんとやる、ただそれだけに終わってしまった感がありました。コルンゴルドの書いた音楽には、もっともっと魔法のような美しさがそこかしこにちりばめられているはずです。ハープやチェレスタの煌めき、金管の輝かしいプレゼンス、ハルモニウムやさまざまな鐘が多層的に重なって生ずるぞくぞくするような響き、こういったもの全てが、著しく不足していました。東響ですから、適切にドライブすれば、そのような魅力的な音楽が沸き上がってきたことと思います。沼尻さんのびわ湖公演では、そういった魅力が全開になっていました。

あと、アリアに関しても甚だ残念な点がありました。まず、このオペラの顔と言っても良い、聴かせどころのアリア、第一幕での「リュートの歌」です。

このアリアでは、歌手がシンプルなメロディーを歌うのに合わせて、チェロやヴァイオリンが静かに同じメロディーを寄り添うように一緒に奏でます。(第二幕の「道化師の歌」も同じです。)プッチーニ風と言っても良いでしょうか、この弦楽の伴奏が、歌の抒情性を一段と深め、うつくしも悲しいこのアリアの感動をひときわ高めてくれます。僕の保有するCD(ラインスドルフ盤)でも、先日のびわ湖公演でも、ここの歌と弦楽合奏が、ぴったりと調和していて、感動の世界にたっぷりと浸ることができました。

しかし今回のアリアは、ソプラノと弦楽の音程があっていないのでした。。。ソプラノが、音程をかなり高くとった歌い方だったように思います。ドラマティックなアリアであれば、このような歌い方が絶大な効果を発揮することは間違いありません。しかしシンプルな「リュートの歌」では、このような歌い方では美しさが損なわれてしまいます。少なくても弦楽とは音程をあわせて欲しかった。。。僕にとっては聴いていていささか居心地が悪くなるような「リュートの歌」になってしまいました。

また、このオペラのもう一つの有名なアリアである、第二幕で道化師フリッツの歌う「ピエロの歌」、これも僕としてはかなりの違和感がありました。歌手に対してではなく、演出に対しての違和感でした。

今回の演出は、プログラムに乗っている演出者自身の解説によると、パウル自身の主観的な立場から見た世界を描くコンセプトということです。その趣向の最たるものが、死んだ妻マリーを舞台上に登場させてパウルには妻が見えている、というユニークなアイデアで、これはなかなかに面白い趣向でした。

そういうコンセプトなので、第二幕が、現実世界ではなくてパウルの夢の中の体験である、ということをわかりやすく示す舞台設定でした。本来の台本によれば、第一幕の舞台はパウルの部屋で、第二幕はそこから一転して、ブルージュの街の、運河に沿った道端が舞台になります。その運河を、ボートに乗ったダンサーやら道化師やらの劇団一座が到着する、という展開になるわけです。

しかしこの演出では、第一幕は台本通りのパウルの部屋でしたが、第二幕がユニークでした。舞台背景にはブルージュの街並みの風景が現れるものの、舞台の大半は、パウルの部屋の舞台装置がそのまま置かれたままです。すなわち第二幕になっても、部屋の左右の壁は第一幕のままだし、舞台中央には、第一幕で置かれていた巨大なダブルベッドが、そのまま鎮座したままでした。ですのでパウルの部屋のままなわけです。これによって観客は、ここで起こっていることが、現実の世界の出来事ではなく、パウルの夢の世界での出来事なんだ、ということが、わかりやすくなるという仕掛けです。

そのような舞台に、第二幕が始まってしばらくして登場してくるのが、道化師やダンサーほか劇団一座の一行です。もともとの台本の指定では、運河からボートに乗って到着することになっています。しかしこの演出では、舞台中央の巨大なベッドに穴があき、穴の中から、次々に一座の人たちが登場してきます。そして登場したそれらの人たちは、オールを持っていて、巨大なベッドをボートにみたてて、オールを漕ぐような仕草もして、パウルの部屋に侵入してきたのでした。まさに夢の中での登場のような、奇妙な登場です。そしてこの道化師が、ちっとも道化師のようなひょうきんな仕草をしないのです。それどころか、パウルに威圧的な、敵対的な態度をとります。しかもこの道化師役が、友人フランクと同じ歌手が演じているわけです。

この、道化師とフランクを同じ歌手が歌い、その道化師がちっとも道化師のようでなくてパウルに敵対的、というのは、まさにこの演出の狙うところなのでしょう。

というのは、第二幕のこれに先立つ部分で、パウルは友人フランクと、マリエッタをめぐって争いになり、フランクは「もう友人じゃないからな!」と怒ってその場を去っていきます。そのあとに登場した道化師が、フランクと同じ歌手であり、その道化師がパウルに威圧的、敵対的な態度をとるというのは、パウルが夢の中で体験している世界そのものになるわけです。

そういった心理描写的な意味では、道化師をフランクと同じ歌手に歌わせ、パウルに敵対的な態度をとらせる、という演出の設定は、パウルの心の葛藤と不安を表していて、なかなかに面白いと思いました。しかししかし、道化師をそのような性質の存在にしてしまったことで、このオペラで道化師の存在やその歌が持つ魅力の多くが失われてしまったように、僕には思えてなりません。

この道化師の歌は、「リュートの歌」と同じように、取り戻せないもの、過ぎ去ったものへの憧憬を歌ったアリアです。ウィーンの香りが濃く漂うような、本当に切なく美しい歌詞と音楽です。このアリアを聴いているときには、その世界に素直にどっぷりと浸りたいと思います。少なくともコルンゴルトはそのように意図したと思うし、僕もその世界に浸りたいと思います。

ところが今回の演出では、登場した劇団一座の人々が、パウルの大切にしている妻マリーの遺品やら写真やらを撒き散らかします。そして「道化師の歌」を道化師が歌っているときに、パウルが部屋の中をそろそろと歩きまわって、散らかされた写真や遺品を拾おうとすると、一座の人々はそれを踏みつけて邪魔します。それが、このアリアの間中ずっと繰り返されました。演出家の解説によれば、「パウルの夢が、彼にマリーを手放すように促しているのです」ということです。さらに、歌が終わって帰っていく劇団一座の人々は、オールでパウルを威嚇するような身振りを繰り返しながら去っていきます。

演出家の狙いはわかるし、それなりにおもしろいと思います。しかしそういった設定と演技によって、この道化師の存在の本来の意味、「道化師の歌」の持つ本来の美しさは、完璧に台無しになっていました。これでは演出が出しゃばりすぎ、と僕は思います。演出は、音楽に奉仕しなくてはいけないと思います。演出の狙う心理描写のために、音楽本来の持つ性質を打ち消してしまう、というのは、本末転倒ではないでしょうか。もしかしたら、このオペラをさんざん味わい尽くしたマニア筋からはユニークさというか、現代性というかが評価されるのかもしれませんが、それにしても、音楽の意味をここまで壊してはいけないと、素朴に思います。

そもそもはフランク&フリッツ役は、当初はトーマス・ヨハネス・マイヤーという別の方が歌う予定でした。それが、「芸術上の理由により」代役となったと発表されています。芸術上の理由って、どういう理由だったのかが知りたいところです。声質が変化したため、とつぶやいている方がいらっしゃるので、そういう理由なのかもしれません。でも、もしかしてもしかすると、その歌手はこの演出に疑問を感じて、この演出では「道化師の歌」は歌いたくない、と思ったのかもしれない、などと妄想したりしているこの頃です。

それから、字幕についても一言。今回の字幕、わかりにくかったです。ぱっとみて、よく意味がわからない。たとえば道化師の歌の切なく美しい歌詞の意味が、見ていて理解できませんでした。終わってから近くの観客が、「このオペラ難解だったね」と言っていたのが耳にはいったりしました。この難解さの少なからぬ一因は、この字幕にあり、です。
この点、びわ湖の字幕は、本当にわかりやすくて心にすっとはいってきて、とてもすばらしい字幕だったことを、あらためて感じます。

最後に、細かなことですが一点、びわ湖二日目の記事で書いた、第一幕でマリエッタが登場する箇所でパウルが「不思議だ!」というくだりの動作についても、書いておきたいと思います。今回のパウルの動作は、びわ湖の初日公演と同じような、冴えない、感嘆の気持ちがあまり伝わってこない立ち居振る舞いでした。それでも見ていて、びわ湖初日公演ほどの違和感はありませんでしたが、それは、そもそもオケがここで奏でる音楽も、感嘆の気持ちがあまり感じられないものだったので、違和感が少なくてすんだのかもしれません(^^;)。

この箇所は、ほんの一瞬のことだし、もしも今回の舞台しか見聞きしていないとすれば、それほど気にはならないような些細なことかもしれません。しかしラインズドルフのCDでのこの箇所の音楽表現に聴きほれ、そしてびわ湖公演二日目でのこの箇所でのオケの音楽の雄弁さとパウル役山本さんの仕草の見事さを目の当たりにした自分としては、これこそがコルンゴルトの描いたイメージだと実感しますし、それを感じとっていないような演奏や仕草には、物足りなさを感じてしまいます。

ということで、指揮者、目玉のアリア二つのそれぞれの問題点、字幕と、僕としては疑問をいろいろ感じて、びわ湖のときのような圧倒的な感動に浸ることはできませんでした。しかし、パウルの歌をはじめとして、すばらしい点も多々あり、貴重な体験だったことはもちろんです。明日24日、もう一度聴きに行きます。最終回となる第5回の公演です。今度はどんな死の都体験になるのか、楽しみです。






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Last updated  2014.03.27 20:52:40
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