ドイツの若い指揮者マイスター&読響のマーラー6番を聴きました。
指揮:コルネリウス・マイスター
管弦楽:読売日本交響楽団
ハイドン 交響曲第6番
マーラー 交響曲第6番
7月14日 サントリー
マイスターさんはドイツの指揮者、今年36歳で、来年度からの読響首席客演指揮者に就任が決まっているということです。
ハイドンとマーラーの6番同士を合わせるという、変わったプログラムです。
オケの配置は、ヴァイオリンが両翼配置です。読響のコンサートにそれほど頻繁に来ているわけではないので良くわかりませんが、読響のヴァイオリン両翼配置は、かなり珍しいのではないでしょうか。読響と言えば、舞台上手の客席側に陣取ったヴィオラ隊が、渋く美しく、大きな存在感をいつも感じさせてくれるオケです。しかし今日は、舞台下手から順に、第一Vn, Va, Vc, 第二Vn, Cbという配置です。Cbまで動かすと大改造になって大変でしょうから、第二VnとVaだけを入れ替えてヴァイオリン両翼配置としたのでしょう。
ハイドンの交響曲第6番はまったく聴いたことありません。この日は疲れていたので、「マーラーに備えて(^^;)眠ってしまうかも、それもやむを得ないな」と事前に勝手に納得していました。しかし始まった途端に、すがすがしくさわやかで、きびきびとして目が覚めるような音楽に、たちまち引き込まれて、そのまま最後まで聴いてしまいました。いいものを聴けました。続くマーラーが楽しみになりました。
休憩後のマーラーも、弦は同じ両翼配置です。そして舞台下手の客席寄りに、ハープ2台、チェレスタがあります。舞台後方には横一列に打楽器が並び、そのセンターにハンマーがあります。ハンマーはわりと小ぶりの木製とおぼしきもので、叩く台は普通の木の箱でそれほど大きくない、地味なものです。カウベルは事前に視認できませんでしたが、吊り下げているものは見当たりませんでした。普通に手で持って鳴らすのだと思われます。
演奏が始まりました。第一楽章、やや遅めのテンポで始まりました。そして弦の刻みに乗って、第6小節から入ってくる第一主題の最初の音(二分音符)が、アタックはそれほど強烈でなく、そのあとぐぁ~んとクレッシェンドというか膨らましてきました。これにはびっくりしました。あとでスコアを確認したら、そういうクレッシェンドの指示はありません。弦パートの二分音符には何も記号がなく、管パートの二分音符にはデクレッシェンドの記号がついています。それにも拘らず、ここをぐぁ~んと膨らまして演奏したのです。続く第7小節の二分音符も同じように膨らまして歌わせます。これが良いです!機械的でなく、歌心があり、これはちょっとすごいです。続くフレーズにも、細かなところひとつひとつに、歌心があり、味わいがあります。
第一楽章途中のカウベルは、普通に舞台下手側の裏手で、鳴らしていました。
第一楽章が終わって、指揮者は右手に持ったタクトを静かに降ろして行きます。しかし左手は、曲げて、胸にあてたままです。やがて右手のタクトを完全に降ろし切ったあとも、左手は胸にあてたままで、まっすぐと立っていて、身じろぎもしません。時間的な合間をとってこそいるものの、彼の中では集中が連続しているのです。格好良すぎです。普通なら楽章間で多く起こる咳払いその他のノイズも、指揮者の姿をみて遠慮がちになり、ほとんど静かなままです。
そしてしばしの間合いをおいて始まった第二楽章は、アンダンテでした。個人的には第三楽章にアンダンテをもってくる旧来の楽章順の方が好きです。しかしこの演奏は、すばらしいものでした。第一楽章と同じように、楽器のバランスにとても気を配って、そして十分な歌心があり、その充実ぶりにうっとりとさせられます。
第二楽章の舞台上のカウベルは、見たところ奏者は二人だけで、それも普通に手でもって、がらがらと鳴らすやり方でした。特別に音色が繊細とか、響かせ方にユニークな工夫はありませんでした。音量的にも、マーラーの指示通りに鳴らしていくという、オーソドックスなものでした。
アンダンテ楽章全体の設計もきちんとしていました。楽章最後の方、練習番号59~61のテンポ設定に、それが良く現れていました。この箇所は楽章最後の盛り上がりのところで、ここのテンポ設定は、楽章全体の構成上とても重要です。スコアを見ると、この59~61には、マーラーがEtwas Drängend(少しせきたてられるように)とかNicht schleppen(引きずらずに)などの指示を数多く書いています。そこで、多くの指揮者は、マーラーの指示通りということで、このあたりをやや速度を速めて割合一気に演奏していきます。
ここをマイスターさんがどうやったかというと、59と60をやや速めに演奏したあと、61をテンポを少し落とし、ここをじっくりと歌わせ、情感豊かに表現していました。そのテンポ変化はそれほど大きなものではないですが、自然で、効果は十分なもので、こういう大きな流れの設計がうまいなぁと感心しました。
かくて第二楽章が終わりました。僕がこれまで体験した6番のうち、第二楽章アンダンテという楽章順をとった演奏で言えば、この演奏がアンダンテ楽章の美しさをもっとも現していたと思います。楽章順も大事ですが、より本質的なのは、音楽の中身であり、中身が本当に良ければ順番はどちらでもいいんだ、ということをまざまざと実感しました。
第二楽章が終わると、マイスターさんは同じように、右手のタクトをゆっくりと降ろしていき、やがて完全に降ろし切りましたが、やはり左手は胸の前にあてたままで、直立不動を崩しません。集中し続ける指揮者を、聴衆も固唾を飲んで見守る感じです。
第三楽章スケルツォも、良く考えられた楽器バランスが絶妙で、ワクワクするような新鮮な響きが満ち満ちて、聴いていて実に気持ち良いです。
第三楽章が終わっても、マイスターさんは同じく、「タクト降ろして左手降ろさず」です。さすがに客席からは、来るべき終楽章に備えての咳払いなどの仕切り直しの雰囲気がありましたが、指揮者は直立不動のまま、それが終わるのを身じろぎもせずじっと待っています。
終楽章も、とても充実していました。マイスターさんのマーラーは、楽器バランスを良く考え、常にコントロールして、いろいろな楽器の音色が聞こえて来るのが、美点です。たとえば何楽章かは忘れましたが、ホルンのメロディーにファゴットが重なって吹いていることが良くわかり、美しく響いていました。いろいろな楽器の音が良く聴こえてくると言うと、たとえばインバルのマーラーを思い浮かべられるかもしれませんが、インバルとは全然違います。僕にとっては、インバルは、分析的に聞こえすぎるのですが、マイスターのは、あくまで美しい響きとして、音楽的に響いてくるので、すばらしいのです。
しかしマイスターさんのマーラーには、圧倒的なパワーというか、どろどろした情念のようなものは、ありません。特に終楽章は、この点が、贅沢をいえば、食い足りない点でもありました。それから、カウベルなどの特殊楽器の響かせ方や音色などにはあまりこだわりがないようでした。そんなマーラー面白いの?と思われるかもしれませんが、これはこれで十分に面白いし、立派な存在価値があるマーラーだと思います。
なお、最後の音が消えた後、しばしマイスターさんは右手のタクトを上においたままで、その後ゆっくりとタクトをおろしていきました。そしてタクトを完全に降ろしきりましたが、やはり左手は曲げて胸にあてたままで、「タクトおろして左手降ろさず」のスタイルで直立不動です。今夜の聴衆はすばらしく、タクトが下がりきってもなお、誰も拍手もブラボーも発しません。そのようにしてしばらく完全な静寂が続き、マイスターさんが力を抜いてちょっと体を動かしたのを契機に、拍手が少しずつはじまり、その後にブラボーが始まっていきました。
今夜のマイスターさんのこれまでの楽章間の様子を見ていれば、たとえタクトが降りきっても、まだ「音楽モード」にはいったままだ、すなわち、マイスターさんにとって、まだ音楽の「余韻」が続いているんだ、ということを、誰もが明確に理解したと思います。そして聴衆全員が、マイスターさんの「余韻」に合わせて、拍手・ブラボーを見合わせて、やがてマイスターさんが「通常モード」に戻ってから拍手が始まったというわけでした。理想的な拍手の始まり方ですね。やはりこうでなくっちゃ。
明るい、明晰な、歌心にあふれた悲劇的。こう考えてくると、ハイドンに通ずる傾向と言ってもよいですね!だからこそプログラムにハイドンを持ってきたのか、と今になって合点しました。
マイスターの、新しく、重くないマーラーは、若い新しい感覚ならではの良さですね。ある意味、インキネンのマーラーに似ていると思います。奇しくも、マイスターもインキネンも、同じ1980年生まれです!彼らのような新しい世代によって次々に出てくるマーラー音楽の新しさ、マーラーの音楽の現代性は、まだまだいろいろな未知の魅力を秘めているのではないでしょうか。
マイスター&読響のマーラー、今後が非常に楽しみです。来年度から首席客演指揮者ですから、いろいろと聴く機会があるかと思います。もうカンプルランさんはマーラーをやらなくてよいですから(^^;)、マーラーは是非マイスターさんに任せていただいて、どんどん演奏していただければ、うれしいです。